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2013年3月26日

【旅の記録】会津への旅2012(大内宿、前沢曲家集落、東山温泉「向瀧」、松平家廟所、飯盛山)

カテゴリ:フォトギャラリー

 毎年春めく季節になると、自分の認識を深めようと、いつもより少し遠くへ旅に出ます。一昨年は東日本大震災で行けませんでしたが、一昨昨年は世界遺産・熊野古道を訪れ、日本ならではの宗教観・自然観に触れました。

 昨年は、地図を見てたまたま訪れた岩手県金ヶ崎町にて「伝統的建造物群保存地区」なる制度を知り、それではまず、南東北を制覇しようと、福島県南会津地方にある「大内宿」と「前沢曲家集落」を訪れました。

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 そして今年もまた、あの会津東山温泉「向瀧」が恋しくなって、会津と米沢方面へ旅することに。ところがその前に、昨年の記録をアップし忘れていたので(!)、かなり時間が開きましたが、まずは復習がてら、昨年の記録を更新しようと思います。

 (最近もやっぱり、なかなかブログを更新できていません。本当は残しておきたいことが、たくさんあるのですが・・・。時間に追われるのも有難いことですが、"時間を先回りする"フォームをきっちりと固めたいところです・・・)

◆伝統的建造物群保存地区「大内宿」へ

 その日、仙台を出発したのが昼前と遅かったため、最初の目的地である大内宿に到着したのは、(ラストオーダー時間ギリギリの)16時前。振り返れば、天気が良かったのは初日だけでしたので、やはり旅は早く出るものだと、初端から反省です。

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福島県南会津「大内宿」の町並み

 気を取り直して、まずは歴史から確認です。江戸時代、会津城下と日光街道の今市宿を結ぶ会津西街道は、会津藩が江戸への最短経路として17世紀始めに整備した街道で(江戸までは5泊6日で着くらしい)、大内宿はその宿場町として整備されました。

 参勤交代の大名行列などで賑わった大内宿ですが、明治以降は(会津藩は佐幕派だったためか)近代化の波から取り残されました。しかし幹線道路体系から外れたことは、図らずも昔ながらの景観を今に残すことになり、昭和56年、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されます。このあたりが歴史の面白みですね。

 茅葺屋根の民家が立ち並ぶ景観は、まるで映画のセットのよう。しかし決して作り物ではなく、大内宿では住民の方々が住民憲章をつくって「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、実際に現在も生活を営みながら、景観の保全・継承に取組んでいるそうです。

◆ネギを箸がわりに蕎麦を食す

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「高遠そば」で有名な三澤屋の外観

 とはいえ、腹が減っては戦ができぬ―ということで、まずは三澤屋で名物「高遠そば」を食しました。高遠そばとは、信濃高遠の冷たい蕎麦で、大根おろしが入っています。ネギを箸がわりにして食べるという、とても珍しいスタイルです(もちろん箸も用意されています)。

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高遠そば(1050円)、このほか天ぷら盛り合わせ(840円)と半熟卵(150円)。意外と良心的な値段設定。

 そもそもなぜ、信州の蕎麦を会津で?それは会津松平家初代の松平(保科)正之が、最初は信濃高遠藩主だったことに由来しているとか。ただ、信濃ではネギを箸がわりにはしないそうで、経緯は不明ですが、箸が薬味というのは何だか一石二鳥な気分ですね。

 さて肝心の味は、箸がわりのネギは齧ると甘く、大根おろしのピリッとした辛味と、好対照。手打ち蕎麦とダシ汁と薬味のバランスも最高で、一気に美味しくいただきました。ただネギは当然のことながら青い方に行くほど辛味が効いてくるので、最後は辛・辛にならぬよう、ペース配分には注意が必要です。

 そして何より印象的だったのが、お店の方々の(良い意味で観光地っぽくない)素朴であたたかな接客でした。翌日も「また食べたい」と身体が欲したのは、手打ち蕎麦とダシ汁と薬味のバランスの良さだけでなく、人々の営みに触れた結果であるのかもしれません。

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ずらりと並んだ蕎麦おちょこも可愛かったです

◆保存地区選定までの経緯

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どの家の屋根にも見られた「水」の文字

 次いで、町を散策すると、どの家の屋根にも「水」の文字が。前から田舎で見かける度に気になっていたので、村の人に尋ねると、「昔からの火除のおまじない」とのこと。ちなみに、てっきり鰻か何かかと思った「水」の隣の模様は、「寿」の字らしいです。

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かつての問屋本陣跡を再建した展示館

 かつての問屋本陣跡を再建した茅葺屋根の建物が展示館として公開されていました(入場料:大人200円)。江戸時代の部屋があり、写真や生活用品などが展示されています。こちらは知りたいと思って来ているので、解説が充実しているのは大変有難いです。

 中でも特に印象深かったのが、「昭和52年の大内ダム建設で経済的活状が生まれ、茅屋根をトタンで覆うなどの家屋が増え始めた」一方で「大内宿の景観保存を望む声が増えて」伝統的建造物群保存地区選定に至ったという経緯。時代を感じますね。

 HPによれば、会津茅職人の調査に訪れた武蔵野美術大学の相沢教授(当時学生)が保存の必要性を村に強く訴え、村は賛成と反対の意見に2分したそうですが、相沢教授と町長の熱心な説得によって保存され、今では通年120万人の観光客が訪れるようになったとか。

 2011年、平泉が世界遺産に登録された時も思いましたが、やはり真の価値とは何かを見抜き、尽力する人がいて初めて、他にはない価値を生み出すものだと改めて思いました。

◆茅葺屋根と相互扶助の精神

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茅葺き屋根の解説が充実していた

 展示館では、茅葺き屋根の解説が充実していました。そもそも「茅」とは、ススキやスゲ、アシなどの総称。「丈夫さではヨシだが、ススキは滑りにくいので高所作業に向いている」など特徴があるそうで、大内宿ではススキが最も多く使われているということでした。

 ススキと言えば、その辺で勝手に生えるものだと思っていましたが、茅葺き屋根に使うススキは、「茅場」で地域の人々に共同管理されているそうです。まっすぐな良い茅を取るためには、毎年きれいに刈り取ったり、日当たりを悪くする木や蔦を取り除くなど、ススキにも管理が大切ということでした。

 さらに、茅屋根を葺くプロセスもビデオで鑑賞。多くの人が役割分担しながら協力し、約2ヶ月かけて作業を行うそうです。想像以上に様々な技術が駆使される様子を見て、きっと簡単には真似できないノウハウが詰まっているのだろうなと感じました。

 古来から日本の村落共同体を支えてきた相互扶助の精神で、大内宿の茅屋根が支えられていることがよく伝わってくる展示でした。今でも大内宿では、茅職人が高齢化する中、若手の有志も茅葺き技術の習得や伝承などを行なっているそうです。

 大内宿は、近代化の波に取り残された結果だけで存在できるのではなく、地域社会のたくさんの人々の努力と協力によって、大切に守られ続けているのですね。

 このほか、我が仙台藩祖・伊達政宗との関連もチェック。芦名氏を滅ぼしたり、豊臣秀吉から小田原参戦のために呼ばれ大内を通るなど。歴史の観点から見ると、自分の住む地域とのつながりが必ずどこかで出てくるのが、おもしろいところです。そうやって、どんどん自分からのリンクを広げていきたいものですね。

◆前沢曲家集落と木賊温泉「岩風呂」

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前沢曲家集落のようす

 続いて、大内宿から約60kmほど南下し、前沢曲家(まがりや)集落へ。馬屋が母屋とつながりL字に曲がっているのが、曲家の特徴ということです(翌日訪れた博物館の企画展で偶然そのことを学びました)。それだけ当時は、馬が大切な存在だったのですね。

 ところが、平成23年度に伝統的建造物群保存地区に選定されたばかりのためか、看板以外の情報は見当たらず。残念ながら、資料館らしき建物は休館中(12月~4月中旬は休館)。せめて何か情報だけでも得ることができれば、はるばる来た甲斐があったのですが。

 しかし地図をよく見ると、かねてより訪れてみたかった木賊(とくさ)温泉の露天岩風呂(共同浴場)がすぐ近く(約10km)にあるではないですか。図らずも、念願の入浴を果たし、4月にしては冷えた身体をあたためました。

 露天岩風呂は、足元からの自然湧出で、湯量も十分。詳細な泉質は不明ですが、お湯は透明で、少しとろみも感じられ、時間が経過しても体がぽかぽかあたたまるお湯でした。住民の方が「千年守り続けてきた地域の誇り」とする思いも伝わってくるような良い温泉でした。

◆念願の国登録有形文化財・東山温泉「向瀧」に泊まる

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東山温泉「向瀧」の外観

 「部屋ごとに間取や工法が全て異なる、国の登録有形文化財に泊まれる宿が、会津にある」と耳にして以来、一度訪れてみたかった東山温泉「向瀧」に、今回、思い切って宿泊しました。

 結論から言えば、これまで温泉の泉質や自然の恵みといった価値のみに対価を払い、もてなしなどのサービスに対価を払うことに意義を感じたことがなかった私ですが、今回初めて「くつろぎ」というサービスの意味を実感した滞在となりました。

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東山温泉「向瀧」の日本庭園。

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東山温泉「向瀧」の内観

 館内は、手入れが大変行き届いており、文字通り埃一つないほど、ピカピカに磨き上げられていました。古くて良質な建物の重厚感と人間の手入れが揃うと、こんなに気持ち良く過ごせるものかと驚きました。安らぎとはそういうところにあるのかもしれません。

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東山温泉「向瀧」の部屋

 私は最も安い「川側か山側客室」のプラン(1泊2食 16,950円)を利用したため部屋は選べませんでしたが、他のプランですと、好きな部屋を選べるそうです。もっと早めにチェックインして、いろいろな部屋を見学してみたかったですね(できないかな・・・)。

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東山温泉「向瀧」の夕御飯。写真は前菜。郷土料理のにしん山椒漬けも大変美味だったため、お土産に購入。

 お食事は会津の郷土料理。すべて感激するほど大変美味しかったのですが、特に「ほうれん草のふきのとう和え」が慈悲深い味で、もういくらでも食べたいくらいです。地鶏も味わい深い。鱒も雪鱒や紅鱒を刺身でせいろ蒸で。会津の春の恵みを満喫しました。

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東山温泉「向瀧」の夕御飯。写真右は郷土料理の「こづゆ」。古代米のお椀は蓋を開けると桜の香りが広がった。

 会津の郷土料理・鯉の甘露煮も、生臭さは一切なく、脂身の美味さが際立ちます。会津産こしひかりも、つい、たくさんお代わりしてしまった美味しさ。ちなみに、朝御飯に出た松前漬けは、やはり会津藩と同じ佐幕派である松前藩を意識したものであるらしいです。きっと他にも、いろいろな意図があるのでしょうから、それらを見つけていく楽しみもありますね。

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東山温泉「向瀧」の湯口付近

 温泉は自然湧出の自家源泉というのも嬉しい点。当然ながら、源泉かけ流し100%の完全放流式(加水なし、加温なし、循環濾過なし)。白い析出物が湯口に多量に付着しているのを見ると、嬉しくなります。

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東山温泉「向瀧」の温泉。昔ながらの湯治場タイプ(きつね湯)。

 大理石の浴槽や家族貸切風呂など、5つのお風呂に入れるのですが、すべてのお風呂が異なったデザインで、重厚な創り。デザインも隅々まで機能性と遊び心があって、見ているのが面白いです。例えば、天井のヒル石でできた彫刻は、水を吸収して湯気のしたたりを防ぐ効果があるとか。

 お風呂で偶然一緒になったマダムは、はるばる京都から東北を応援するために観光に来たそうで、「まずは姉妹都市から」と会津を訪れたそう。なお、京都市と会津若松市は、「新島八重」を主人公とした、平成25年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の放送決定を契機として、東日本大震災からの復興と両市の友好発展を目指し、平成24年3月、相互交流宣言の調印をしたばかりとのことです。

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東山温泉「向瀧」の大広間

 大広間も見学させていただきました。格子状の天井(格天井)が旅館の天井に採用されている点が特徴的で、各格子の中には畳半畳ほどの一枚板がはめられています。この天井は、すべて一本の桐からできているのが、今では再現不可能の技術とのこと。

 江戸時代に会津藩保養所として利用された「向瀧」は、1873年に旅館として創業。伊藤博文や野口英世、最近は小泉純一郎元首相など、多くの著名人が訪れているそうです。非日常的なくつろぎを求めて、私も年に一度くらいは楽しみに訪れてみたいものです。

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不思議な形をしたノコギリは、「木挽鋸」(こびきのこ)といって、大きな丸太から木材にする時に使う道具らしいです

 【追記】
 あとで気づいたのですが、ちょうど私が「向瀧」に滞在した時が、モデルの押切もえさんが、NHK「仕事ハッケン伝」という番組で向瀧の客室係に挑戦していた期間でした。今思えば「あの額にあるノコギリは、なぜあんな形をしているのですか?」と私が尋ねた時、困った顔をした大変美人な客室係さんは押切もえさんだったのです...どおりで綺麗だと思った...。テレビで見るより顔が小さて目が大きく、10代くらいに見えました。

◆松平藩御廟所の亀石

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松平藩御廟所の地図

 会津の地図を眺めていると、松平家御廟所(国史跡)を発見。最近は上杉家御廟所、伊達家御廟所(瑞鳳殿)、日光東照宮(徳川家康御廟所)、伊達家9代儀山政宗夫妻墓所などのお墓を訪れ、それぞれの特徴を興味深く思っていました。その中でも松平家御廟所は、かなり独特な雰囲気を持つ迫力あるお墓で、今回訪れて最も良かったと思った場所です。

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松平家御廟所の入口

 松平家御廟所は、東山温泉に近い森の中にあります。"山が丸ごとお墓"といった感じで、面積も約15万平方メートルと広大。道はそれほど整備されておらず、さらに先日の強風で倒木が道を塞ぐなど多少の困難もありましたが、観光地化され過ぎた場所が苦手な私にとっては、かえってそれくらいが丁度よく、ちょっとした登山気分で林の中を登りました。

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山頂までは石段を約15~20分ほど登って行く

 松平家御廟所には、2代保科正経から9代松平容保までの墓所があります。まず山腹に、二代目正経と歴代藩主の子どもや婦人が仏式で葬られ、さらに石段を登って山頂に、三代目正容から九代目容保までの歴代藩主が神式で葬られています。ちなみに、初代正之の墓は、猪苗代町の土津神社にあるそうです。

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ずらりと並んだ巨大な碑石と亀石

 石段を登りきって、ようやく開けた場所に出ると、ずらりと並んだ巨大な碑石が、目に飛び込みます。そして碑石の下には、不気味な亀らしき動物が睨みをきかせているのです。その壮大さと不気味さに始めは驚きましたが、神妙で威厳的な雰囲気が次第に心惹きつける、不思議な空間でした。

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碑石と亀石、かなり大きいことがわかりますか?

 「生まれも育ちも東山、生粋の東山っ子」と言う向瀧の番台さんに、「地元の方が、心の中で最も大切に思う場所は、どこですか?」と後から尋ねたところ、やはり、この松平家御廟所を挙げ、「野山を駆け巡っていた」幼少期のお話をしてくれました。こんな場所で幼少期を過ごせたら、どんなに良かっただろうと、心底羨ましく思います。

 なお、碑石を支える亀らしき石は、そのまま「亀石」と言い、古代中国の故事から引用された死者の霊を守る想像上の動物で、この亀石があるお墓は神式ということです。そして亀石の上にある碑石は故人の姓名・生い立ち・人柄・経歴などを讃える文章が詳細に刻まれているとのこと(お墓自体は、さらに奥にあります)。

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亀石はやはり獏なのでしょうか・・・?

 ちなみに、この直後に訪れた飯盛山のさざえ堂の前で、この亀石と碑石に大変良く似た「供養車」というミニチュアがあり、「石の台は中国伝説の獏といい夢を喰うので、その上にのぼれば悪夢消滅の願いを叶えると言われている」と書いてあったので、てっきり亀石は悪い夢を追い払うための獏だと思っておりました。けれども、この亀石=獏なのかは、調べてみても、よくわかりませんでした。


◆飯盛山・白虎隊十九士の墓

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白虎隊19士の墓 (飯盛山)

 そして会津と言えば、白虎隊。飯盛山の山頂には戊辰戦争で自決した19人の白虎隊士の墓があります。白虎隊士は全部で37人いたそうですが、31人は戦死。そのうち20人が自決しましたが、その中で唯一生き残った人がいました。飯沼貞吉という人です。

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飯沼貞吉について紹介する看板

 こちらの看板によれば、飯沼は維新後、会津を逃れ、なんと(当時、会津とは犬猿の仲だったであろう)仙台で余生を過ごし、会津には二度と戻らなかったそうです。けれども、この人のお陰で19人の自決の経緯が明らかになりました。そして1957年、戊辰戦争90周年を記念して、飯盛山の白虎隊19士の墓と並び、飯沼の墓も建立されたそうです。

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会津藩白虎隊精神の基礎「忠孝両全」碑(この写真はクリックすると拡大されます)。

 白虎隊の悲しい歴史は、会津藩と新政府との対立から生まれたものではありますが、実は会津藩はもともと自ら京都守護職を望んでいたわけではありません。本当は「行くは憂し行かぬもつらし如何にせむ」と政争に巻き込まれることを嫌がっていましたが、幕府からの信任厚く(薩摩兵と会津兵が日本で最強の兵士団と言われていた)、会津藩は断り切れずに、幕府が潰れる7年前から守護職を務めることになります。

 大政奉還後、会津藩は恭順謝罪文を何度も示したものの、新政府首脳は「仇敵会津を圧殺せずば維新の達成不可能」と握りつぶし、会津藩は戦争に負けてしまいました。その後、青森の下北半島(斗南藩・3万石)に移封され、飢餓状態で苦しい思いをした、会津藩の歴史的経緯と大内宿の景観が残されたことは、無関係ではないのでしょう。それだけ会津は重要な土地で実質的な力があったということですね。

 ちなみに、2013年度のNHK大河ドラマでは、その時の戦いで、「鶴ヶ城から新政府軍に向かってゲベール銃を撃つ女がいるらしい」と、「幕末のジャンヌダルク、維新のナイチンゲール」と呼ばれた新島八重という女性が主役になるそうです。地元はその話題で持ちきりらしく、街中にはポスターが早くも貼られていました(注:この文章は昨年のものです)。

 以上が昨年の記録ですが、今年訪れた米沢城と鶴ヶ城は伊達政宗(どちらの城も一時、政宗が城主になっている)とも縁が深い場所ですので、歴史的なつながりが、どんどんリンクしていく感じがおもしろかったです。今年の記録については、後日まとめたいと思います(果たしてちゃんと更新できるか・・・?!)。

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大河ドラマ「八重の桜」の舞台としても有名な鶴ヶ城(福島県会津若松市)。城内には、歴代城主の解説が兜(レプリカ)とともに展示されており、会津は様々な歴史の舞台だったことがわかります。ただ、城内の殆どは撮影禁止なのが残念なところです・・・


 

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