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2024年 03月 19日 (火)

「仙台の地形と水との関わり」~地形から見る仙台の過去・現在・未来~

2022年03月02日公開

取材・文/大草芳江

 仙台は1601年、伊達政宗公によって、ひらかれたまちです。政宗公は、当時どのような風景を見て、ここにまちをつくろうと決めたのでしょう?その決断は、現代のわたしたちの生活とどのようにつながっているのでしょう?わたしたちの生活にかかせない「水」、そして水の流れに大きく関わる「地形」という視点から、仙台の過去と現在そして未来を一緒に考えてみましょう。

        ----- 目次 -----
【謎1】伊達政宗公はなぜ仙台にまちをつくったのだろう?
    ~仙台ができる前のどんな風景を見て決めた?~
    ◆ 大昔、どんな人が住んでいた?
    ◆ なぜ伊達政宗公は仙台を選んだのか?
    ◆ 城下町ができる前の仙台の原風景は?
    ◆ 仙台は「河岸段丘」のまち
【謎2】伊達政宗公はどうやって必要な水を確保したのだろう?
    ~ 地形をうまく利用してまちをつくった政宗公~
    ◆ かたむいている地形をまちづくりに利用
    ◆ 城下を拡大するほど、水がさらに必要に
    ◆ 政宗公の偉業「四ツ谷用水(よつやようすい)」
【謎3】四ツ谷用水がもたらした、意外なめぐみとは?
    ~地下水を育み湧水を生む「水の都」に~
    ◆ 四ツ谷用水が地下水をゆたかにして多くの湧水を生んだ
    ◆ 仙台の地下に天然のダムがあった!
    ◆ 仙台で一番古い水道
    ◆ 望まれる水の流れの復活
【謎4】東日本大震災時、なぜ下水が使えたのだろう?
    ~現在と未来につながる先人たちの知恵~
    ◆ 先人たちの知恵を活かしてつくられた仙台の上下水道
【おわりに】「仙台・水の文化史研究会」会長の柴田尚さんからのメッセージ

※ 本記事は、仙台市科学館からのご依頼で、片平市民センター(仙台市青葉区)に設置されている仙台市科学館展示「仙台の地形と水の関わり」の解説パンフレット原稿として作成しました。なお、記事中の画像は展示用動画、あるいは、取材にご協力いただいた「仙台・水の文化史研究会」会長の柴田尚さんからご提供いただいたデータです。


【謎1】伊達政宗公はなぜ仙台にまちをつくったのだろう?
    ~仙台ができる前のどんな風景を見て決めた?~

◆ 大昔、どんな人が住んでいた?

 そもそも政宗公が仙台に城下町をひらくずっと昔、ここは、どのような土地だったのでしょう?一番古い生活のあとを、「富沢遺跡・地底の森ミュージアム」(仙台市太白区)で見ることができます。約2万年前の氷河期、旧石器時代の人たちが温まった、たき火のあとです。それほど昔から、ここには生活に必要な水があったのでしょう。

「富沢遺跡・地底の森ミュージアム」(仙台市太白区)にある約2万年前のたき火あと。ちなみに、旧石器時代の人たちの生活のあとと氷河期の森のあと、この両方を当時のままに見ることができる場所は、世界中でここ仙台だけです。


◆ なぜ伊達政宗公は仙台を選んだのか?

 時代は、仙台のまちが開かれる1年前の、西暦1600年に移ります。伊達政宗公が33歳のとき、関ヶ原(せきがはら)の戦いのあと、岩出山(現 宮城県大崎市)から仙台の青葉山に城をうつすことを決めました。そして、当時は未開(みかい)の地だった仙台に、城下町をひらいたのです(1601年)。

 なぜ政宗公は、ここ仙台に城下町をひらくことを決めたのでしょう?

仙台の城下町の位置

 まずは、交通の便がよいことが重要です。仙台は、伊達家の領土の中心に位置し、その領土を南北につらぬく奥州街道(おうしゅうかいどう:現在の国道4号線)や浜街道(はまかいどう:現在の国道6号線)、出羽国(でわのくに:現在の山形県と秋田県)からの街道(現在の国道47号線や国道48号線)も通る、交通の要所です。また、当時は物を舟で運ぶのが主流でした。そのため、名取川や広瀬川を舟での運搬に活用できることも、仙台が選ばれた理由のひとつだと言われています。

 さらに、関ヶ原の戦いが終わったとはいえ、政宗公のライバルである上杉景勝(うえすぎかげかつ)は、すぐとなりにいて安心できる状態ではありませんでした。青葉山の断崖(だんがい)は要害(地形がけわしく守りに有利な場所)に、広瀬川は天然の堀(ほり)になります。そこで政宗公は仙台の自然のめぐみをいかし、青葉山に城をきずき、広瀬川の対岸の「河岸段丘(かがんだんきゅう)」の地に城下町をひらきました。城下町には、家臣をはじめ約5万人といわれる人々が岩出山から移動し、広瀬川から20メートルも上の高台にある河岸段丘の上で生活を始めたのです。

 大きな城下町は、舟で物を運ぶのに便利な、海ぞいの河口近くの海岸平野につくられる場合がほとんどです。ですから、仙台のように広瀬川の中流で、さらに海岸平野に比べて一段高い河岸段丘地が城下町として選ばれたことは、とても珍しいことでした。政宗公が低くて平らな海岸平野を選ばなかった理由は、津波や洪水などの自然災害からまちを守るためでもあったのでしょう。

 しかしながら、ここで大きな謎が生まれます。城下町の人々が住むのは、広瀬川から20メートルも上にある河岸段丘の地。その高い崖が広瀬川の水を直接運ぶことを不可能にしていました。実際に現代においても集落の多くは河岸段丘より低い平野にあります。それでは、河岸段丘の上に住む約5万人ともいわれる人々は、毎日生活するための水を、どのようにして確保したのでしょうか?現代の水の専門家は大きな疑問をいだきました。それでは、この大きな謎を、仙台の地形を見ながら、一緒に解いていきましょう。


◆ 城下町ができる前の仙台の原風景は?

 当時は未開の地だった仙台の、どのような風景を見て、政宗公はここに城下町をひらこうと考えたのでしょうか?

 城下町がつくられる前の仙台の原風景を、わたしたちは『東奥老子夜話(とうおうろうしやわ)』という史料の中に見ることができます。すると現在の市街地は、一部を除いて、沼や湿地(しっち)だらけだったことがわかります。

 湿地があるということは、それだけ地下水がある、ということです。ただ、湿地があるとはいえ、それを見て5万人もの生活を支える地下水があることを、当時なぜ判断でき、城下町をきずくことを決断できたのか?現代の水の専門家は、とても不思議に思いました。そこで、仙台の地形と地盤(じばん)をくわしく調べて、生活のための水を当時どのように確保(かくほ)できたかを調べました。


◆ 仙台は「河岸段丘」のまち

 まずは仙台の地形を見てみましょう。仙台の城下町、現在の市街地が発展する台地は、広瀬川の東側にあり、河岸段丘が階段のように発達しています。

 先ほども、仙台の城下町は「河岸段丘の上につくられた」というお話をしました。河岸段丘ってなんだろう?と、わからなかった人も多いと思います。ここでもう少しくわしく説明しましょう。

 河岸段丘とは、川によって台地がけずられることで、川よりも高くて平らな面と、けずられてできた崖からなる土地のことで、文字通り、階段のように段々になった地形のことを言います。

仙台の段丘地形分類図

 仙台の市街地は、4つもの河岸段丘が階段状に発達した土地の上にあります。これらの段丘は、1万年前までに広瀬川の川が流れる部分が移動しながら形づくられたものです。広瀬川に近いものから「下町(しもまち)段丘」「中町(なかまち)段丘」「上町(かみまち)段丘」「台原(だいのはら)段丘」と名付けられています。仙台のほとんどの人が、標高30~60メートルくらいのところに住んでいるのです。

 下町段丘には、米ヶ袋、花壇。中町段丘には、八幡、広瀬町、国分町、一番町。上町段丘には、木町、上杉、小田原。台原段丘には、堤町、台原、東照宮があります。あなたの住む家は、どの河岸段丘の上にありますか?

 現在の仙台の市街地でも、この段丘崖(だんきゅうがい)を、自分の目で直接確かめられる場所があります。例えば、ここ片平市民センターの上の崖は、中町段丘と下町段丘との段丘崖です。また、米ヶ袋の坂道も、中町段丘と下町段丘との段丘崖です。勾当台公園の石段は、中町段丘と上町段丘との段丘崖です。台原の坂道は、上町段丘と台原段丘との段丘崖です。

 自転車をこぐのが大変になったり楽になったりする場所があれば、「ここは、どの段丘とどの段丘の段丘崖だろう?」と、河岸段丘の地図を確かめてみるとよいですね。仙台は河岸段丘のまちだと実感できたでしょうか。

 さて、このような河岸段丘の上に、政宗公は1601年、城下町をつくり始めました。その翌年には、家臣をはじめとして町人など、岩出山城下から仙台城下への移住が行われました。その数、約5万人と言われています。

 城下町をきずくにあたり、原野だったこの地をていねいに調査して、5万人もの人々がここに住んで水を確保できると判断した、ゆうしゅうな土木技術者が家臣の中にいたのです。後にできる用水路の技術も、このことをしめしています。政宗公の先をみとおす力、そして家臣たちのすぐれた技術力には、現代に生きる研究者や技術者たちもおどろいています。

 それでは次の章で、現代の研究者や技術者たちもおどろいた、仙台城下の町づくり、特に用水路の技術について、くわしく見ていきましょう。


【謎2】 伊達政宗公はどうやって必要な水を確保したのだろう?
   ~ 地形をうまく利用してまちをつくった政宗公~

◆ かたむいている地形をまちづくりに利用

 仙台城下のまちづくりは、どのように行われたのでしょう?人家もまばらな荒野に、まったく新たな城下町の建設がはじまったのです。

 仙台の地形は、北西から東南にかけてななめにかたむいています。みなさんも、南の方から仙台市役所方面へ自転車をこぐ時、行きは大変なのに、帰りは楽だと感じた経験はありませんか?自動車に乗っていると平らに感じる仙台の市街地でも、自転車でこいでいるとわかるように、仙台は北西から南東にかけて、水が流れやすいかたむきがある地形なのです。

 この地形を利用して、街路(道路)がつくられ、街路にそって水路(人工の川)がつくられ、生活や消防、農業のための水が確保されました。開府当初の水源は、山上清水地区(現・八幡5丁目)の豊富な湧水だったと考えられます。仙台城下は、沼や湿地だらけのきびしい自然条件だったにもかかわらず、土地の形を上手に考えて計画されたまちであることがわかります。


◆ 城下を拡大するほど、水がさらに必要に

仙台城下の整備(仙台市博物館「城下町ポケットガイド」の図・仙台城下の広がり)

 仙台藩は藩祖政宗公から4代藩主綱村(つなむら)公の時代まで、約100年の間に城下を4回拡大しています。城下を拡大すればするほど、さらに水が必要になります。しかし、1601年に仙台を開府してからしばらくは、最上家との争いも続いており、城下の外に重要な水源地を設けるわけにはいかなかったのでしょう。1622年、最上家の改易(かいえき:大名としての家が取りつぶされ、最上家が出羽国の領地を失った)後、西からおびやかされる心配がなくなった政宗公は、若林城をつくり(1628年)、城下を広げました。そのために消防と農業用の水がさらに必要となったため、広瀬川上流の郷六にまでさかのぼって水源を確保し、城下町の水路網(すいろもう)につなげたのも、この時期ではないかと考えられています。


◆ 政宗公の偉業「四ツ谷用水(よつやようすい)」

 こうして政宗公の命(めい)によってつくられた人工の川(用水路)が、「四ツ谷用水(よつやようすい)」です。広瀬川から水を取るようになった四ツ谷用水は、各所にわき出す泉や沼の水と一体になって整備され、東南方向にななめにかたむく地形にそって、城下町をくまなく流れました。

 1766年頃の仙台城下絵図「宝暦図」に、城下を流れた四ツ谷用水の水路網が記録されています。この絵図に現在の仙台市街地の地図を重ね合わせてみましょう。現在の街路(道路)に水が流れていたことがわかります。

 四ツ谷用水の水路網は、本流が広瀬川から梅田川に通じ、この本流から3本の支流が分かれ、さらに多くの枝流がわかれ、仙台の城下町をくまなく流れました。
 この水路網は、生活や農業、消防のための水として重要な役割をはたしました。水路の合計距離は、約60キロメートルにもなりました。

 この四ツ谷用水は「広瀬川の河岸段丘の地形を巧みに利用し、仙台の水環境を支えた」ことを理由に、2016年、土木学会の選奨土木遺産に認定されています。

 さらに、この水路網は、生活や農業、消防のための水だけでなく、雨水や生活排水を流す役割もはたしました。なお、当時の生活スタイルを考えると、実際の生活用水量は、現代と比べてそれほど多くはなく、1日あたり一人50リットル未満程度だったのではないかと考えられます。ちなみに、みなさんは自分が1日あたり何リットルの水を使用しているか、ご存知ですか?お家にある水道メーターの検針をぜひ確認してみてください。わたしたちが使う水がどのように供給され、どのように排出されているか、地形との関わりの中で、ぜひ理解していきましょう。


【謎3】四ツ谷用水がもたらした、意外なめぐみとは?
    ~地下水を育み湧水を生む「水の都」に~


◆ 四ツ谷用水が地下水をゆたかにして多くの湧水を生んだ

 城下町につくられた四ツ谷用水の水路網は、仙台に思わぬめぐみをもたらしました。

 水路網によって地下にしみこんだ広瀬川の水が、地下水を育み、さらに井戸水(いどみず)となって、人々の生活を支えたのです。さらに、多くの湧水(わきみず)が生まれ、屋敷林(やしきりん)が生いしげる「杜の都」として、ゆたかな水環境の城下町になりました。
 明治元年(1868年)の仙台城下の絵図でも、この「杜の都」と呼ばれるもととなった屋敷林が、城下町全体をつつみこむように広がっている原風景を見ることができます。杜の都は、水の都でもあったのです。

明治元年現状仙台城市之図(仙台市指定文化財)

 このように四ツ谷用水の一部が地下にしみこんで地下水をゆたかにしたことは、城下町の地形や地盤とお互いに作用しあって、ところどころに湧水を生むことになりました。

仙台城下の湧水


◆ 仙台の地下に天然のダムがあった!

 それでは、どのような地形や地盤が、豊かな湧水を仙台の城下町に生むことになったのでしょう。最近の地盤調査と研究によって、「長町-利府線断層帯」が、その謎を解く鍵であることがわかりました。

 長町-利府線断層帯とは、仙台市の市街地を縦断する活断層帯(かつだんそうたい)です。「大年寺山断層」と「宮城野撓曲(とうきょく)※1」を合わせて「長町-利府線断層帯」と表現します。大年寺山断層や宮城野撓曲の活動によって地盤が変動し、「背斜(はいしゃ)※2」という、高くもりあがった構造が形づくられました。

※1 撓曲:地下に存在する断層の影響で地表がたわむ現象のこと。
※2 背斜:地層がせまい範囲でたわむと、波打ったようになるが、その山型に曲がっている部分を「背斜(はいしゃ)」とよび、その山型に曲がっている部分の頂点を線でつないだものを「背斜軸」とよぶ。

 この「長町-利府線断層帯」と「湧水の分布」の地図を、重ね合わせたものが下の図です。この図を見て、研究していた水の専門家は、興奮のあまり、「背筋が震えた」そうです。その発見とは何か、わかるでしょうか?

湧水と長町-利府線断層

 活断層である長町-利府線断層帯の活動によって地盤が高くもりあがった背斜軸の上流(北西)側に、湧水が分布していたことに気がついたのです。湧水の分布には、背斜軸が深く関係していることがわかりました。

 それでは、この背斜軸の地下の構造はどのようになっているのでしょうか?仙台市などの地質調査(ボーリング調査)データをもとに、地下構造を分析した結果、実は、地下にはダムのような構造があることがわかったのです。

 地下の浅いところに、凝灰岩(ぎょうかいがん)や堆積岩(たいせきがん)等の水を通しにくい岩の層があり、これが長町-利府線断層帯にそって、地下で、場所によっては7メートルも高くもりあがる背斜軸(東)があることがわかりました。

 この水を通しにくい岩層の上には、河川が運んでくる過程でけずられた岩石(レキ)や、レキと一緒に河川を流れてきた砂など含むレキ層がのっています。レキ層には、水を通しやすい性質があるので、この層に水がたまります。このように地下水がたくわえられている層を「帯水層(たいすいそう)」とよびます。その底にある、水を通しにくい岩層が高くもりあがることで、地下はダムのような構造になっていたのです。

 四ツ谷用水を流れる水は地下に浸透し、自然の傾きによって北西から南東へ、広瀬川や梅田川へと流れました。もし地下にダムのような構造がなければ、雨の降る量によって地下水の量は変動し、生活に必要な水は安定しなかったことでしょう。このような地下ダム構造によって、仙台は、湧水と井戸水にめぐまれた城下町となったのです。


◆ 仙台で一番古い水道

 ちなみに、背斜軸は上流側にもう1本あります。現在の仙台市役所の近くの、国分町を通る背斜軸(西)です。国分町には、京都から出てきた呉服商の奈良屋八兵衛という人がおり、この近くにある「柳清水」という有名な湧水から国分町に水道管をひいていました。水道管といっても当時は、竹を組み合わせ、まわりを粘土で固めたものでしたが、水道管を使って11軒に水を分けていました。背斜軸の上にある国分町のお店は、季節によって地下水が下がると、水の供給が安定しなかったため、湧水から水道をひく必要があったのです。この水道が仙台で一番古い水道であることが、仙台市水道史に記述されています。

 このような特徴のある地下構造を仙台の地形は持っています。結果論ですが、伊達政宗公がここに城下をひらき、人を住まわせたことは、大変な先見の明があったと言えるでしょう。


◆ 望まれる水の流れの復活

 しかしながら明治以降、四ツ谷用水の流れが消滅(しょうめつ)し、地表もアスファルトで舗装(ほそう)されたため、多くの湧水や井戸水はかれてしまいました。

 市街地地下の帯水層の構造を利用して、ゆたかな水の環境をつくりあげることは、都市のヒートアイランド現象をおさえとどめることに役立たてられます。また、災害時の水の供給源(きょうきゅうげん)として活用できれば、防災上も大切なものとなります。四ツ谷用水が教えてくれた水の流れの復活がのぞまれます。


【謎4】東日本大震災時、なぜ下水が使えたのだろう?
    ~現在と未来につながる先人たちの知恵~

◆ 先人たちの知恵を活かしてつくられた仙台の上下水道

 河岸段丘のまち・仙台には、標高30~60メートルくらいのところにほとんどの人が住んでいます。つまり、30メートルの落差をもって水は海へと流れています。水は傾きがあれば自然と流れ下ること(自然流下)を、先人たちは理解した上で暮らしをこの地で営んできました。

 時を経て、戦後の技術者たちも、先人の知恵を有効にいかし、仙台に下水道のシステムをつくりました。仙台の下水道は、市街地の中央部から東部の太平洋沿岸までなだらかにかたむく地形を利用して、自然に流下するように整備されています。

 標高約5メートルのところに、仙台市の約7割の汚水を処理している南蒲生浄化センターがあります。2011年3月11日の東日本大震災発生時、津波によって南蒲生浄化センターは被災しました。仙台に住む水の専門家は、下水も使えなくなると考えて、妻に「庭に穴を掘る準備をしよう」と話していたそうです。ところが、仙台では下水を使い続けることができました。先人の知恵をいかし、下水をポンプなしで自然に流下し、放流ができる構造だったためです。停電、断水を強いられる生活の中で、衛生的(えいせいてき)な生活環境を守ることができたことは、全国から多くの称賛(しょうさん)の声がよせられました。

 また、上水道においても、最初の水道施設は大倉川から取った水を中原浄化場(仙台市青葉区芋沢)で浄水し、荒巻配水所(仙台市青葉区国見)を経て、市民に供給しました。これも下水と同じようにすべて自然流下で各家庭に届けました。

 今でも仙台市の上下水道のシステムは自然流下が基本です。ほかの多くの大都市は沖積平野(ちゅうせきへいや)にあるため、自然流下ではありません。したがって、わたしたちの生活は自然の理にかなった生活を送ることができていると言ってよいのではないでしょうか。

 このシステムも地形を利用した先人からの知恵を受け継いでいるものです。わたしたちは後世に、歴史的な施設もあわせて伝えていく努力をしていきましょう。あなたや家族が、普段すごしている場所の地形をよく確認し、大きなゆれを感じたり、津波情報を得た場合は、ただちに避難できるように備えましょう。


【おわりに】「仙台・水の文化史研究会」会長の柴田尚さんからのメッセージ

柴田 尚 さん
(「仙台・水の文化史研究会」会長)

 NHKテレビ番組の『ブラタモリ』は、わたしの大好きな番組です。地球科学者の尾形隆幸氏(琉球大学教育学部准教授)は、"地球科学者たちから「奇跡の番組」と絶賛される『ブラタモリ』の人気の秘訣は、わかりやすさと学術的な正確さを両立させていること、シームレスなストーリーを構築していることである"と述べるとともに、"学問分野の境界を意識せず、しかしきちんと学問内容に触れつつ、あらゆる学問分野を柔軟に出入りしながら番組が構成されているということである"と述べています。

仙台・水の文化史研究会が制作に携わった片平市民センター内の仙台市科学館展示「仙台の地形と水の関わり」

 僭越とはおもいますが、片平市民センターの地形模型プロジェクションマッピング「仙台市の地形と水との関わり」は、地理をベースにして歴史と工学を主体に生活空間を説明しておりますので、多少はブラタモリ的ではないでしょうか。そして、この模型展示(プロジェクションマッピング)はこどもたちに自分たちの住んでいるところについて学ぶことを目的としています。

 わたしは、こどもを育てる過程のなかで、"何のために学ぶのか!"ということを懸命に考えたことがありました。その結論は、"分別をもつことと志をもつため"に学ぶのであり、社会人として志をもつためには、どうしても大学を卒業する程度の学ぶ期間が必要なのだと得心しました。ただ、こどもたちの学ぶ環境は大きく変化しており、そもそも本来の学ぶ環境がなくなってしまっていることが大問題だと、いまさらながら気がつかされました。少し前の時代の生活空間のなかには自然がふんだんにあり、危険も沢山あり、意識するまでもなく学ぶ環境だったのです。こどものころの一番の遊び場は近くの川でした。それこそ毎日、網で魚をとり、釣りをし、河原で遊び回りました。どのようにしたら上手に魚がとれるのか一生懸命考え工夫しました。

 わたしは仙台の街が世界に誇ることのできる、環境豊かで安全な都市になるために、市民の協働で街中に水の流れを再生することを提唱していますが、それは人工的であっても生物が宿る空間を作ることになります。自然空間に回帰するといえます。そのことはこどもたちの学ぶ環境を育てることになるのではないでしょうか。こどもたちには、自然といっぱい親しんでほしいと思います。そのためには自然を奪ってしまった世代が責任をもって適切な自然回帰に努めなければならないと考えています。

取材協力:仙台・水の文化史研究会(柴田 尚 会長)
     スリーエム仙台市科学館        

取材先: 仙台市科学館     

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