河北新報エッセー連載(第2回)「この世とあの世の間に」
河北新報「まちかどエッセー」(夕刊・隔週月曜日・全6回)を
先月から担当させていただくことになりました。今回で連載第2回目です。(第1回はこちら)
〆切に追われる作家の気持ちを、少しだけ擬似体験(?)しつつ、
やっぱり作家ってすごいなぁ、とそのすごさを改めて感じています。
そもそも「自分のおもうこと」を自由に書けることがエッセイの魅力ですが、
その「自分のおもうこと」を自由に書くということが、逆に、すごく難しい。
というのも、「自分のおもうこと」を言うまでの前提を整えることが、
実は一番難しくて大変なことなのだなぁ、と最近痛感しています。
特に私の場合、別に有名人でも何でもないし、
肩書きだけ見ても何をやっている人かわからない人なので尚更。
それでいて、外から前提を引っ張ってくるのでは、
今自分が取っているスタンスとは合わないので、ちぐはぐになる。
逆に言えば、その前提さえ整えることができれば、ある意味、
「自分のおもうこと」を言ったことと、同じなのかもしれません。
今回のエッセイの場合、700~800字と限られた中で前提をきちんと整え、
「自分のおもうこと」を一つの世界観として表現することが必要なわけですが、
やはり遠く及ばず、その難しさ・奥深さを噛み締めている今日この頃です。
なお第2回となる今回は、「この世とあの世の間に」というタイトルでまとめました。
「自分のおもうこと」は基本的には一つです。全6回の連載で何とか表現したいです。
エッセイ全文を下記の通り掲載しますので、よろしければご覧ください。
「あの世とこの世の間に」 大草芳江
科学と聞くと皆さんは何をイメージするだろう。私は小中高校生時代まで、科学とは客観的で完璧なものと思い込んでいた。だって科学の教科書にも「こうすればこうなる」と、堂々と書いてある。いつの間にか「そういうものだから」と、うのみにする癖がついていった。
それを繰り返すうちに無意識に「これだけ完璧なのだから、私が新しくつくっていける隙などないだろう」と思い込んでいたようだ。すると不思議なことに、私自身が面白い・不思議だなと思うことと現実の世界との「つながり」はだんだん薄れていった。そう思う心もしぼんで悲しかった。
その「つながり」について、仙台市天文台長で天文学者の土佐誠さんはこう語る。
「昔は子どもに対するプレッシャーが強くてね。良い子でなければあの世に連れて行かれるとか。この世とあの世、二つしか世界がなかったの。でも自分で試行錯誤して作った望遠鏡で初めて月を見た時、この世とあの世の間に月や宇宙がある、現実の世界があると感じられて。そこにはいろいろ面白いことがあるようだと、新しい世界を見つけた気がしたのです」
しかし土佐さんが若い時代は、天文学の大学院に進学する人はごくわずか。「もう修道院か何かに入る覚悟で、現世の欲望は捨て、進学しました」と当時を振り返る。
土佐さんに限らず、さまざまな科学者に取材して共通すること。それは、他人からはどう見えるか分からないが、本人から見れば確かにあると思い込める「新しい世界」を持っているという点だ。そして、そのきっかけは意外と主観的で直感的。
それを他人から見ても価値あるものになるよう、科学者たちは日々、試行錯誤しながら論理的に組み上げていく。同時に、この道しかないと覚悟を決めているから、現世のいろいろなものにまみれても「新しい世界」を何とか守り続けていけるようである。
科学と言うと、その方法論や成果ばかりが注目されがちだ。けれども、「新しい世界」を見いだそうと試行錯誤する科学者の姿を垣間見るだけでも、科学に対するイメージは変わるような気がしている。
(河北新報「まちかどエッセイ」掲載 2011/01/31夕刊)
※今回のエッセイのもととなった、仙台市天文台長の土佐誠さんへのインタビューはこちら
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