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2014年 12月 19日 (金)

仙台市天文台長に聞く:土佐 誠 さん(仙台市天文台台長・日本天文学会理事長) 取材・写真・文/大草芳江

2009年03月01日公開

「役に立つ・立たない」価値判断では、それこそ役に立たない

土佐 誠 さん(仙台市天文台台長・前日本天文学会理事長)

1944年、東京都生まれ。1973年東北大大学院修了後、名古屋大助手、東北大助教授、東北大教授(東北大学大学院理学研究科天文学専攻)を経て、2008年4月より仙台市天文台台長。専門は銀河物理学。前日本天文学会理事長。

 「科学って、そもそもなんだろう?」を探るべく、【科学】に関する様々な人々をインタビュー 
科学者の人となりをそのまま伝えることで、「科学とは、そもそも何か」をまるごとお伝えします 


わたしたちは宇宙を、この手で触れることはできない。
けれどもそんな「宇宙を身近に」感じる人が、仙台市天文台台長で天文学者の土佐誠さんだ。

「科学と天文学と音楽は、古くから長い付き合いの友人」という言葉がその関係性を端的に示すように、
文化人という言葉がこれほど似合う科学者に、なかなか出会うことはできないかもしれない。

「ほんとうのことを知りたい」と「役に立たない」の間で揺れた青年時代。
結果から言えば、「ほんとうのことを知りたい」と自然への理解を深めるなら、
自分にとって「役に立たない」わけはない、と土佐さんは言う。

そもそも、「身近に」感じるとは何か。
それは「人間の生命力の素」であり「人生そのもの」と、土佐さんは話す。


仙台市天文台台長の土佐誠さんに聞く

―科学って、そもそもなんだろう?というテーマで
 様々な立場の方から、お話を伺っています。
 土佐さんの場合、天文学というジャンルは変わっていませんが、
 東北大教授から天文台台長へ、立場が変わったことで、
 認識が変わったこと・変わっていないことは何ですか?

自然を見ると、いろいろな現象やものがあって、
「おもしろい」「なんでだろう?」と疑問に感じることが、いろいろあるわけです。

それを自分で考えて、謎が解ける。
自然の謎が解ける。

別の言葉を使えば、「ほんとうのことを知りたい」。
そういうことを追求していくのが、おもしろいんです。

科学の対象というか、自然はすごく幅が広くて奥行きがあり、
いろいろなことがいろいろなふうにつながっています。
僕が科学に興味を持ったのはそこでした。

このごろ、科学というと、すごく役に立つとか、世界で初めてとか、
派手で迫力のある部分だけがニュースなどに断片的に取りあげられますが、
僕が科学で面白いと思うところは、そういった自然のいろいろながりを
解明していくうちに全体が理解できる、そこに科学の本質があると思っています。

自然の謎に触れ、それをそれぞれの人がいろいろ考えて、
自然の謎を解きながら、自然への理解を深める。

そこが、今も変わらないところですね。

ただ最近は、大学も競争が激しい社会でしてね。
大学の研究者のころは、できるだけ早く研究成果を出したり、お金を獲得したり、
あるいは大学の運営も担当したり、ということがあったのですが、
ここではもう少し余裕を持って、科学ってどういうものなのかを、広く考えています。

僕らが生きていく上で、科学を知っていることによって、
自然と上手に付き合うことができて、生活が楽しくなる、人生が豊かになるとかね、
そういうことを、今は主に考えるようにしています。

特に今の科学は、ものすごく派手なところがあるけれども、
そこで科学的なこと、自然に対する理解は深まったか?というと、どうでしょうか。

天文台でパブリックビューイングした衛星打ち上げも、
迫力があって、面白くて興奮することではあるけれどもね。

でも、それだけじゃなくて、自然を味わう、いろんな現象を深く見るとか、
そういうことを一緒にやれればいいなと思っているのです。

―大学の方が科学に集中できるイメージがありましたが、
 天文台の方が、ゆったりと科学を考えられるとは、ちょっと意外ですね。

特にここ10年、大学のストレスが重くてね。
大学がね、だいぶ変わってきたのだと思う。
そういう意味では、ここの方が気分的には科学を楽しめるというか。

あとは、いろいろな人がいるわけね。
全然違う分野で、あるいは普通の市民の感覚で、
「おもしろい」とか「つまんない」とか、言ってくれる人がいます。

それぞれが感じたことを、いろいろ話したりする、
そういう人との交流が楽しいし、おもしろいですね。

わたしたち天文台のスタッフは、市民と接するのが一番の仕事だから、
仙台市天文台全体として、仕事をしているという感じです。

仙台市天文台では、施設のミッションを、できるだけわかりやすい言葉にしよう、
ということで、「宇宙を身近に」という標語をつくりました。

「宇宙を身近に」という同じ目標を実現するために、
天文台のスタッフ全員が、いろいろなことを考えて、
それぞれの立場で仕事をしている、という感じですね。

僕はこれまで天文学を専門的に勉強してきたので、「宇宙を身近に」感じて、
さらに深く興味を持ったら、そこで科学に触れてもらいたいと思っています。

つまり、学問としての天文学に触れることを考えているんです。

―学問としての天文学とは?

星を見て「綺麗だな」とか「感激した」とか、
施設としては、楽しくひと時を過ごしてもらうことにも意味があると思います。

けれどもその先に「なんでだろう?」と、
さらに深く興味を持った人に応えられるようなものを、つくりたいですね。

例えば、星の写真を撮って「これ、何だろう?」と思った人には、
大きな望遠鏡でスペクトルをとってみると、それが何だかわかります。
あるいは星の性質が詳しくわかるとかね。

ただし、このような施設の場合、興味を持った先のフォローアップが、
なかなか難しいのが現状です。

そもそも天文学的な専門知識を持っている人が少ないし、
その先は物理学や数学の基礎を勉強した上でないと理解できないこともあります。

特に興味が深まった人や、科学者を目指す生徒や学生は、
もちろん人数的には少なくなるとは思いますが、
そういう人たちに応えられることを考えたいですね。

また科学、特に天文学は、歴史のある学問です。

文明ができた頃から、暦や時間を、天文学がつくってきたわけです。
それから星座も、ギリシア神話や星占いなど、いろいろあるわけです。

つまり天文学は、生活の中に、文化の中に、広く浸透しているのですね。

そういう方面から、科学の方面に興味を持ってもらっても良いし、
星に興味をもった人が、広く星に関わる文化に興味をもってもらっても良い。

天文台が、そういうものに出会う場所になれれば、と思います。

―天文学は、入り口も出口も、わたしたちの身近にあるのですね。

ただしね、怪しい宗教のページを見ると、星や天体が映っていたりするわけね。
人を騙すことに科学が悪用されないよう、考えていかなければならないなとも思っています。
そういう意味では、天文学は危ないところもあるので。

もちろん星座や星占いは、文化遺産としては価値があるものだと思います。
ですから星座や星占いは、科学じゃなくて、ある種の物語だと考える分には良いと思います。

星座そのものは、別に現実のものではなくて、人間が勝手に想像してつくったもの。
長い歴史があって、星座はギリシア神話を題材にして、そこから絵画や音楽がつくられています。
それは人間の創造力を刺激するものですので、文化的な遺産として大事にしたいと思っています。

イマジネーションを発揮した面白い物語やSFもそうですね。
それ自身はおもしろい文化活動だと思うのですが、
その一方でそれを悪用する人も絶えないわけです。

ですから、そういうものに触れてほしいとも思うし、
偽科学は偽科学とわかるような目を養ってもらいたい。

それは科学を広めることと、表裏一体だと思っています。

―科学と非科学を見分ける上で、わたしたちに必要なスタンスとは?

それはなかなか難しいことですよね。
まずは科学以前に、常識を養うことでしょう。

普通の生活をしていて、起こりそうにないことは、起こらない。
何もしないで物質をつくったり消したりすることは、有り得ないことです。

占いなどで病気を治すことはもちろん有難いことだけど、
普通、何もしなければ、それは起こらないことですね。

日常生活で、実際の現実に触れながら生活をして、
そういう常識を養う、っちゅうことなのかな。

その延長線上に、科学もあるわけです。

けれども、例えばゲームマシーンの中で、非現実的な世界を考えていると、
常識、つまり実際の世界を超えてしまうのですね。
そういう感覚でいると、エセ科学にひっかかりやすいのでは。

落ち込んでいるときや、ストレスや不満があるときとか、
そういうものに騙されやすい時期があるかもしれませんけどね。

普通に自然のなかで生活していて、あまり特別なことを期待しないというかな。
あまりうまい話にはのらない、とかね。

そもそも科学には、うまい話はないです。
研究する上で、いろいろな実験や観測をして、データを集め、
いろいろな発見があって、はじめて世の中に理解されるわけですね。

つまり日常生活を通して、感覚や常識を養うことが一番。

現実世界の中で、冬は寒いし夏は暑い、とかね。
単純に言うと、そういうことなのですけど。

今は、人工的に環境を変えたりして、ちょっと非現実的な世界なのかもしれません。
典型的なのはゲームマシーンの中で遊ぶことなのだけど。

生の自然に触れる機会は少ないよね。

―そもそも宇宙は、地球上の草のように手で触れられないものです。
 それでも土佐さんが宇宙を自然の一部としてとらえ、研究対象にしたのはなぜですか?

あんまり深くは、考えていないのだけどね。

最初に宇宙に興味を持ったのは、
はじめて望遠鏡で月を見て、クレータがあるのが見えたとき。

うちは父親がカメラ屋をやっていたから、
たまたま、まわりにレンズが転がっていてね。

望遠鏡なんかはうちになかったけど、
カメラを壊してレンズを見てみたら、
大きく見えたり、小さく見えたりするわけです。

最初はよく見えなかったけれども、
試行錯誤して望遠鏡ができて、自分でつくった望遠鏡で月を見たとき、
「本当にこういうところにクレーターがあるんだ!」と、月をすごく身近に感じたの。

それまで月って、あまり意識していなかったのだけど、
実際に月にクレーターが見えて、すごく身近に感じたわけです。

それと、これも小学生の高学年頃かな。
当時、子どもに対するプレッシャーが強くてね。

良い子でいなければいけない、
悪いことをすると、「あの世」に神様がいて罰を与える、とかね。

要するに当時、「この世」と「あの世」、ふたつしか世界がなくってね。
ときどき、「あの世」からのプレッシャーがあるの。

けれども、「あの世」と「この世」の間にね、お月さんや宇宙がある、
ということが何となく感じられて。

手は届かないのだけども、現実の世界が、「この世」と「あの世」の間にある。
そこには、いろいろ面白いことがあるようだと感じられて、
開放感というか、新しい世界を見つけたような気がしたのです。


つまり、身近に感じたというのは、興味が湧いた、ということかしらね。

本を読んだり、もっと大きい望遠鏡をつくったりしながら、
いろいろな天体がよく見えるようになったりしてね。
それで何だかすごく、世界が広がった気がしました。

宇宙という世界は、直接手は届かないけれど、
「この世」と「あの世」の間にある現実の世界で、
いろいろ探求したり、追及したり、むしろ実感を伴ったり。

つまり、何でも興味をもつと、身近に感じる、ということがあるのではないかしらね。
宇宙に限らず、人間でも、知らなければ距離を感じるし、理解すれば身近になるしね。

例えば、総理大臣も今すごく遠くに感じるけれども、
直接話すと案外ね、身近に感じることもあるかもしれないしね。

宇宙の場合、科学的には天体がどうこうとか、いろいろあるけれども、
夕焼けの中に細い月が見えたりすると、それだけで美しい風景になる。

それだけでも、宇宙を身近に感じるのではないでしょうか。
今この時期だと、金星が夕方、輝いていますよ。

宇宙からの距離は、普通の人と同じだけれども、
興味を持って調べると、いろいろなことがわかるので、
その分だけ身近になる、ということだと思うのだけどね。

―たとえ直接手が届かない宇宙であっても、
 興味を深めるとその分、自分とのつながりができるのですね。

それともうひとつ、天文学を勉強して、感じたことがありました。

宇宙には歴史があって、ビックバンというはじまりがあります。
最初は天体も何もなくて、熱いガスのような状態だったものが、
宇宙が膨張する中で、万有引力で物質が集まってきてね、
銀河ができたり、銀河の中に星が生まれたりしていきます。

そしてある時期、太陽が生まれて、地球が生まれて、
その地球上で生物が進化して、今、ここまで来た、と。

星は輝いているけれども、その中心では核融合、
つまり原子力で、エネルギーを出しているわけです。

そのときに、新しい元素をどんどんつくっているんですね。
原子同士が衝突してエネルギーが出るわけですけど、
原子の核がくっつくと、新しい元素ができるわけです。

このようにして星の中で新しい元素を盛んにつくっているわけですが、
星が死ぬとき、大爆発をして、元素を宇宙にばらまくわけです。
そういうことを繰り返しながら、宇宙の元素がだんだん増えていく。

太陽や地球ができるときは、そういうものも含めて元素が集まってきて、
その元素で、わたしたちの体がつくられているのね。

今ここに炭素や酸素があるけれども、これはどこかの星でつくられたもの。
わたしたち人間も、星のかけらなんですね。

つまり、宇宙と人間との関係性が、宇宙の歴史をたどると、出てくるということ。

そもそも僕が天文学の勉強をしたいと思ったのは、もちろん星に関心があったのだけど、
人間関係の難しさというかね、それとは少し反対の方向に行きたいというのがありました。

小さい頃は、人の気持ちとか人間関係とか、なかなか難しいところがあって、
それにうちは貧乏だったから、そこから離れた世界で勉強したいという気持ちがあったのです。

ただね、勉強していて、全然人間と関係がないのも寂しいなぁ、と思っていて。

特に、天文学を勉強したいとまわりに言うと、
「天文学は何の役に立つの?役に立たないじゃか」と言われるわけです。

父親もがっかりしていてね。
その頃、天文学というと、就職口がないと言われていました。
ですから当時、天文学に行くということで、肩身の狭い思いをずっとしてきたのです。

人間から離れた自然を、と思ってはいたのだけど、
けれども人間と全然関係ないのも寂しいなぁと思っていたら、
実は、人間をつくっている元素は、星の中でつくられたものだと知って、
すごく嬉しかったですね。

つまり、人から離れて孤独というわけではなく、
自然の中に人間がいて、人間が存在していることの理解につながっているのです。

そういうことを感じて、天文学を勉強していて良かったなぁ、
と思ったことがありましたね。

―自分は反対側に行っていると思っていたら、後ろからぐるっとまわって、
 想定外の方向から、求めるところへくっついたという、嬉しさなのですね。

そういうことは、学問や、学問以外でもあるかもしれないね。
全然関係ないと思っていたものや、反対側に行っていたと思ったものが、
巡り巡ってつながりが出てきて。そうなると、別の面白さが出てきたりしてね。

僕は人からはよく、「小さい頃から純粋に星や科学に興味を持って、
それを追求していて幸せですね」と言われるんだけれども、
必ずしもそう単純ではなくてね。

天文学なんて、食えないし、役に立たないし、どうしようか。

当時は大学院に進学する人は少なくて。
ましてや天文学に残る人は少なくて。

大学院に進学するときは、もう修道院か何かに入るつもりで、
世俗の欲望は棚に上げて、というか、捨ててね。

やれるところまでやってみよう、食えなくなったらそのときに考えよう、
という覚悟で入りました。

当時の天文学の就職口は、日本では大学の先生になるか、
あるいは東大付属の天文台(現在の国立天文台)か、そこくらい。

実際、博士課程を終わる頃、天文学の研究をできる職はほとんどありませんでした。
コンピュータ会社が雇ってくれるという話はあったのですが、別分野で外国。
たまたま名古屋大学に助手の口ができたんで、本当にラッキーでした。

高校を卒業するときはね、
もし大学へ行けなかったら、しょうがないから働こうと思っていて。
働くなら、天文台で働きたいと思っていました。

東京天文台は、東大の施設なので、公務員なのね。
だから公務員試験を受けて、希望先に東京天文台と出しました。

すると天文台から、採用したいから技師として来い、という返事があって。
そこで面接に行って、天文台の先生から、いろいろ話を聞いてね。

じゃあ、もし大学に落ちたら、天文台に来たら、と。
ただし天文学は専門的な勉強をしてはじめてできることだから、
大学に入って勉強して、それから研究者として、いろいろ考えなさい、と。

それで結局は、東北大に合格したので、こっちに来たのですけどね。
そのとき東北大に落ちていたら、天文台の技師として、
観測機械の整備とか、そういう仕事をしていたんじゃないかと思うのですけどね。

―紆余曲折を経て、今に至っているのですね。
 「天文学は役に立たない」とおっしゃっていましたが、天文学をはじめとする
 科学(理学)は、「役に立つ・立たない」とは違う軸にあるのでしょうか?

科学っていうのは、
そもそも僕自身は、「ほんとうのことを知りたい」。

今は衛星打ち上げやノーベル賞などで、科学がにぎわっていますね。
もちろん本人達は、立派に科学的な仕事をして成果をあげているわけですが、
僕らから見た場合には、科学については何もわからないわけです。

科学は、自然に興味を持ったり、「不思議だな」と思ったことがあったら、
それを考えたり調べたりしたりして、自分で解明して、
ほんとうのことを知る、というのが科学の真髄じゃないかと思うのです。

そういう意味では、今の社会での科学の取り上げられ方は、
もちろんそれは華やかで面白くて良いのだけど、
僕のイメージしている科学とはちょっと違うような印象です。

僕は東京で育ち、それから仙台に来ましたが、
以前仙台市天文台が西公園にあった頃、二代目天文台長の
小坂由須人(故人)さんという、ちょっと変わった人と出会いました。

その小坂さんが、「真理は、真理ゆえに尊い」と。

つまり、「ほんとうのことを知りたい」ということは、
役に立つ・立たないは関係なく、それだけで尊いんだ、と。

これまではただ興味を持って追求するだけでは何の役にも立たないではないかと、
非常に肩身の狭い思いをしていたのですが、それを聞いて、ほっとしたのを覚えています。

結果から言えば、自然に対する理解を深めたら、
役に立たないわけは、ないわけです。

むしろ人間が自然の中で生きている中での、
自然な活動じゃないかと思っています。

今、科学は「何のために役に立つか」が、すごく強調されますね。
もちろん、科学技術や医学など、人間生活に役立てることが
最初の目的になっている分野もあるわけです。

けれども僕自身が考えている科学は、
もちろん役に立つに越したことはないけど、自然への理解を深めること。

そうすると自然を見ていても、自然の理解が深まれば、
自然がすごく身近になって、人生を通じて楽しめる。

役に立つ科学や仕事というと、
それは現役の仕事としてやっているうちは良いかもしれないけど、

一人の人間としてね、自然と向き合ったとき、
役に立つ・立たないという価値判断では、
それこそ役に立たないのではないかと思うのです。

自分にとって、自分の生きる力として、役に立つかどうかが、
大事じゃないかなと思うのですけどね。

そもそも、いろいろ興味を持つということが、
人間の生命力の素だと思います。

自然のことをいろいろ知れば、興味が湧いてくるし、
それが、ひとつの生きる力ではないでしょうか。


ところで、大草さんは、どういうことを勉強していたの?

―ここで大草の話(研究内容、起業の動機、「宮城の新聞」の位置づけ、NPOでの科学教育等)が続く

僕も、科学に興味を持って、それで学校でカリキュラムが進んでいくと、
学校の科目に入ってくるわけね。そうなると、興味がなくなっちゃう。

本当は学校の教科書に書いていることよりも、
おもしろいことが、いっぱいあるのに、って。

天文台でも学校の授業をやっていて、
中学生は必ず一回ここで授業を受けることになっています。
小学生も、かなりの学校が来ています。

授業は、もちろん学校の学習指導要領に沿ってはいますが、
もし科学に興味を持つとしたら、どうしてもそこからはみ出ます。

小中学生の理科は、どうしても幅が狭いというか。
そこからさらに興味が膨らんだ部分、はみ出た部分を、
ここでいろいろ興味を持ったり勉強してくれたら良いなと思います。

そこからは、それぞれの子どもの自然な発展だと思います。
それぞれの子どもが持っている知識や感覚によって、
その先の興味の持ち方はちがいますから。

例えば、「将来、科学者になりたい」という子どもがいたなら、
そういう興味を持ちながら、やはり基礎がないと理解ができない部分もあるので、
数学や物理の勉強をしながら、星に対する興味を深められたら良いと思います。

また例えば、夜に金星を見て「光っていて綺麗だな。あれは近づいたら
どんな風に見えるんだろう」と思えば、望遠鏡を覗いてみる。
今の時期なら、金星は三日月みたいに見えます。

「星っていうけど、木星や地球と同じ、天体なのだな。
けれどもそれが、どうして、満ち欠けをするのだろう?」

これは昔、ガリレオが考えたことなのですけど。
そういう風にして、理解を深めていくとかね。

実際にはまだできていませんが、そういうプログラムをいくつか用意しておいて、
そこから入って、天文学や科学を実際に体験しながら理解を深めるものを考えています。

「ここから将来、天文学者が出ると良いですね」という言い方をよくされるのですが、
もちろんそうなっても欲しいのだけど、僕の場合ね、
市民レベルでもう少し科学に興味を持ってもらいたいと思っています。

例えばスポーツは、プロもアマチュアもあれば、
日曜日に子どもと一緒にやるようなものもあって、すごく幅広くなっていますよね。

その一方で、科学や文化の場合、プロはいて、愛好家は一部いるけれども、
もうちょっと、科学に興味を持つ大衆がいても良いのではないかと思うのです。

僕が小さい頃は、科学雑誌がたくさんありましたが、
日本の科学雑誌は、どんどん廃れていっています。

科学に興味を持ったり理解する人が、少ないのかもしれません。
もうちょっとね、そういう雑誌を読んで楽しめる人たちがいても、良いのだと思うのだけど。

大学で科学や物理を勉強した人が、少し余裕が出てきたら、
その基礎をもとに、星や宇宙に興味を持ったら、いろいろおもしろいと思うのですけどね。

だから専門家を育てることだけじゃなくって、
科学に理解のある市民が来てくれると良いなと、思うのです。

こういう施設の場合、どうしても「子どものために」とか
「理科教育のために」と言われてしまいますが、
できるだけ大人の人にも来てもらって、一歩進んで、科学に目覚めてもらいたいなぁ。

スポーツは、あんなに盛んなのにね。
スポーツ以外の文化は、日本では全滅かなぁ・・・どうかなぁ。

勉強というと学校、学校というと試験や受験になっちゃうけど、
本当は学校はほんの一部で、その外側に文化施設かなんかがあってね。

生涯学習という言葉があるけど、一生続けて勉強をしていくような場所に
天文台がなれたなら良いなと思います。

天文学は、森羅万象すべてを扱う学問だと、言っているわけですけど(笑)、
森羅万象、人間活動すべてに関わることとして、何でもやろうとしています。

科学だけだと、どうしても、そういう気持ちが育たないのかな。
もう少し文化かなんかを大事にしたり、考えてたり、良いと思う雰囲気がないとね。

今の時代は「感動した」とか「興奮した」とかすぐに言わなきゃいけないんで(笑)、
そうするとどうしても、スポーツばかりになっちゃうんでね。

最近の学生なんかも、簡単に「感激した」とか言うんだね。
そう簡単に感激するものじゃないよ、と学生には言うのですけどね。

―土佐さんの全学対象講義では、学生から拍手が沸き起こる、と二間瀬さんから聞きました。
 その講義についても、「科学を文化へ」という思いがあったのですか?

はじめはあまり、そういうつもりはなかったんだけどね。

最初は理学研究科の天文学の教授として、天文学を理解してもらおうと
話していたのだけど、どうしても天文学の宣伝になってしまってね。

特に理系の先生は、セールスマンとして、自分の分野の宣伝をするわけです。

けれども学生の立場からすると、自分たちがすごいことをした、とか言われても、
ちょっと違うだろうと思って。話す方としても、ちょっとおもしろくないし。

興味がない人にそういうことを無理無理言っても、おもしろくないんじゃないか。
僕が学生だったらどうかな、と考えました。

だから、理学研究科天文学の教授としてではなく、東北大学の教授として、
専門とは関係なく分野を離れて、広く自然科学を講義しようと。

講義の題目は「天文学概論」でしたが、いわゆる一般教養的に、
理系・文系関係なく、それを通じて科学全般を取り扱いました。

学生からも、「こんなにも宇宙が豊かだとは思わなかった」とか、
「宇宙のことはわからないと思っても、意外と常識でわかるんだ」とか。
そういう印象を伝えることができたようです。

―科学者としての素養が問われる場ですね。

今は専門分野が細分化されているから、大変だと思うねぇ。

僕自身は、天文学に興味を持ったときから、宇宙全体や天文学全般に興味があったので、
講義もすべて専門的にやるわけではないし、そういう意味では楽しくやりました。

川内キャンパスにあるメディア棟の500名収容ホールで、受講生は350名くらい。
教室に入ったとたんに、圧倒されてね。それはもう、自分を奮い立たせる感じでやりました。

あと毎回ね、質問紙を配って、感想や質問を学生に書かせて回収したの。
そこに、けっこう面白いことが書いてあるんです。

天文学は英語でAstronomyと言うでしょう。
「明日徒労のみの天文学」とか、書いてあってね(笑)。

僕はそれを講義の前日に、ビールを飲みながら見るわけです。
これは僕の気持ちを言い当ててくれたな、と(笑)。

織姫と彦星、星の距離を測る話で、
「織姫と彦星は何十光年も離れているので、とても一晩ではデートできませんよ」と話をすると、
質問紙に「先生それは間違っています。愛は光の速さを超えます」と書いてあったりしてねぇ。

面白いこともあったのだけど、試験の成績をつけるのが大変でね。
学期末に成績つけるとなると、レポートがこんなに(高さ5センチくらいを示して)あってね。
それが終わっただけでも、すごく開放感。

それで、全学教育貢献賞という学内の賞をもらってね。
でも、そういう賞を貰うと、また用事をつけられると思って、警戒していたのだけどね。
5年間の評価から選んだと言われて、5年間も追跡されたのかと思うと、ぞっとしたねぇ。

僕は定年だったから良かったけど、
若い人なんかは、評価を気にしながら授業やるのは、良くないんじゃないか。

―二間瀬さんも、評価について、同じようなことをお話していました(※)。
※詳しくは、二間瀬敏史さんのインタビュー記事をご覧ください

評価できたり、数字にできる部分は、ほんの一部でね。
もしかすると科学や教育にとっては、重要ではない部分かもしれないんだよね。

はじめに勉強するとき、最初から「こうじゃないか」と目的なんかが
はっきりしているものではないと思う。

そもそも未熟な人が勉強を始めるわけだから、いろいろ紆余曲折しながら、
だんだん自分の興味や生きる道を、見つけるわけだから。

もっと、のびのびとね、勉強とか教育ができるといいんですけどねぇ。

けれども、小学校や幼稚園でも、ある種の枠ができていて、
それからはみ出さないとかね、先生もそれに縛られている感じでね。

もっと、のびのびとできたら良いなぁ、と思うのだけど。

―はじめから目的を決めねばならぬ風潮は、最近の傾向なのでしょうか?

進路指導が行き届いているせいじゃないか、と思うのですけどね。
僕の場合、進路指導については、高校時代を思い返すと、全然なかったねぇ。

実際問題として、中高生の段階で、自分の進路がわかるわけではないし、
自分で決められるものではないから。

・・・無理だよねぇ。
僕だって、もう後先長くないけど、なぁんちゃって(笑)
どうやって生きたら良いのかって、なかなかわかんないもんねぇ。

それに、「こういう仕事があったから、この仕事をやる」っていうように、
今、自分の意志で選べとなるよね。実際には、しょうがないから選ぶわけですけど。

自分の意志で決められるという幻想が、社会全体にあるんじゃないかな。
「自己責任」とかさ、「自分の意志」で決められるだとか。
ほんとうは、全然そうじゃないのだけど。

僕の幼少青年時代は、選択肢がなかった。
それしかないから、まずはとりあえず、それをする。
そういう意味で社会にあわせて生きる道を探した、っていうのかな。

要するに、自然にあわせて、生活をたてるみたいなもので。
こことあそこしかないから、じゃあ、とりあえずここで、とかね。

今は、選択肢はいろいろあるのだけど、あたかもその中から
自分で決められるような錯覚、幻想みたいなものがあって、
「自分の意志で決めたのだから、自分の責任」と自分たちもそう思っちゃう。

本当に自分の人生をそこで決めなさい、と言われているようなものね。
けれども興味や関心を持つことはあるわけで、
それはそれで、追求していけば良いと思うのだけど。

けれどもそれが人生の方向になるかは別で、やってみなければわからない。
そうしながら、それが天職になる人もいれば、別の道を見つける人もいる。

そのような自然な発展というのかな、人生に納得のいくような感じで
いかれたら良いのだと思うのだけど。

つまり、自発性は誰でも持っていると思うのです。
それがいろいろな形で制限されているから、それを発揮できないのですが。

その持っている自発性を活かしながら生きていけば、成功・失敗は別にして、
納得できる人生があるんじゃないかなと思うのだけどね。

興味が湧いたら、それを追求していけば、またその先に出てくるから。
そこに応じて、自分が何かを選ぶとかね。

まぁ、ちょっと自分で言っていても、ほんとうかなぁ?と思っちゃったりして、
あれなんだけど(笑)、まぁ、願望ですね。そりゃね。

例えば、何かに興味を持ったり、人を好きになったりすることがあるわけです。
昔なら結婚相手は、親が決めましたが、それよりは自分で、たとえ振られても、
とりあえず良いと思う人に、トライしてみるとかね。
それで駄目だったら、また次の二番目を考えるとか。

それぞれの自分の人生の発展段階で、それぞれの時期でさ、
考えたり判断できることは、自ずと制限があるわけだからさ。

中学生に自分の人生設計をしろというのは無理な話だけども、
その時々でいろいろ考えたり判断できることもたくさんあるわけです。

―その時々で、発揮された自発性を思考と行動の中軸にすることなのですね。

やっぱり、やりたいとか、興味を持ったりとか、好きになるとかがね、
生きる力、生命力だからさ。

そういうところで、できるところがあれば、
一番力が発揮できるのだと思うのだよね。

そして、そういうものは、それぞれの人によって違うからさ、
バラエティーがあって、幅広いと思うんだよね。

だから、学校のような中に、閉じ込められるようなものではないと思う。
それが、難しいところだよねぇ。

僕自身の勉強について言うと、学校での勉強はほんの一部、
大学のときは、授業はほとんど出なかったですね(笑)。

もちろん学校教育は大事で、学校教育を通じて得たり、
そのおかげで触れたりできることはたくさんあるけど、
あくまでそれはごく一部であって。
でも今は、学校ですべてを教育できると思い込んでいるところが
あるんじゃないかな。

―個人的な体験ですが、学校が自分にとってすべての世界となっていたことに
 あるとき気づき、大変驚いた記憶があります。

あぁ、それは、非常によく教育されていたのね(笑)。
僕なんかは、授業のあとが、学校みたいな感じでね。

ちょっとね、学校に対する要求も厳しくなったしね。
天文台もそうなんだけど、社会から見られる目が厳しくなってきた。

すごく批判を恐れるのね。
学校の先生もそうなのだけど、父兄から批判されたりしてね。
そういうのをすごく感じる。

取るに足らないようなことでも、クレームがついたりしてね。
社会全体に隙間がないというか、猶予がないというか。

昔の大学って、得体の知れないところでね。
授業もあるようでないような、建物もおんぼろでさ。

生物で言えば、昔の大学は「生態系」っていうかさ。
今の大学は、「動物園」みたいなもんで、全部管理されていて。

昔の大学は、生態系みたいに、何の役に立つかわかんないけど、
得体の知れないものがいっぱいあって。

さえない先生がいて、質問に行ったら、意外と深く教えてくれたり、
隙間がたくさんあったりして、管理できないものがたくさんあって。
そういう意味での余裕があったねぇ。

でも今は、あらゆるものを管理して、という感じになっているので、
非常に大変だなぁ、と思っているのです。

僕が名古屋大学にいた頃、すごく偉い先生がいたのだけど、
「研究や良い仕事は、余裕があるときじゃないとできない」と言っていましたね。

「それじゃあ、研究でもしますか」という、余裕がないと。
毎日追われているところで研究したって、おもしろくないでしょう。

今の研究者自身、研究を楽しんでいるのかなぁ。
もちろん「楽しい」と対外的には言うのだけど、本当に楽しんでいるのか。

本心は楽しむというより、だいぶストレスの多い中でやっているのではないか、
と感じたりするのだけど。

本来、科学は進歩する必要がないもの。
自然の理解がだんだん深まれば良いのであって、競争は必要ないと思うのだけどね。

競争をしたりすると、それ自身の楽しみが半減しちゃうし、
それ自身をもうちょっとゆっくり味わう、じっくり楽しむ、
学問を楽しむということは、時間を競うところにはなくって。

ただ、今おかれている環境では、そんなことを言っていられないのだと思うけどね。

―野家さんが「科学技術」と「科学・技術」の違いについてお話されていました(※)が、
 進歩という述語が使われるのは、科学が修飾語として使われる「科学技術」の方かもしれませんね。
※詳しくは、野家啓一さんのインタビュー記事をご覧ください

小さい頃、「自然科学」という言葉を聞いて、「これだ!」と思ったんだよね。
科学というと技術でさ。うちの母親なんかは、医者か技術者になると良いと言っていた。

僕も、科学は技術と一緒になっているものだと思っていたのだけど、
いつ頃かな、「自然科学」という言葉を聞いて、自分が考えているのはこれだな、と思った。

そういう意味では、科学と技術がいっしょになっちゃって、
本来の自然科学というか、理学が非常に影が薄くなっちゃっているよね。

東北大にいたときに、偉い物理の先生が、
「天文学は、役に立たないから価値があるのだ。
天文学は、理学のシンボルみたいなものだ」とおっしゃってね。

けれども今の時代は、天文学者も
いかに役に立つかを、申請書に書かなくちゃいけない。

数学の先生方ですら、お金がどうこうと言う時代ですから。

むしろ、芸術や絵画が、ほんとうの美を追求しているように、
自然科学は、自然の真理を追究している。

それって、同じことなのにねぇ。

―対象は何であれ、ほんとうのことを追求していく。

端的に言えば、「これはすごく高かったのですよ」とか、
「偉い人がつくったのですよ」とかではなくて、
それ「そのもの」に興味や良さを見つけるとかね。

自然の法則は、もちろんニュートンやアインシュタインが見つけているのだけど、
ニュートンやアインシュタインがいなくたって、自然の法則「そのもの」はもともとあるもの。

「そのもの」の理解を深めるというかね。
そのような興味関心の持ち方は、その人の人生そのものになると思う。

お金でいえば高い・安いという価値とは別に、
「そのもの」が自分自身にとって大事かどうか、という価値。

あるいはそういう形で、自分とつながる。
それがその人にとって、自然とあるいはまわりのものと自分とが、つながる道だと思うのね。

それを少しずつ発見していって、身近になっていくと、
人生が豊かになるということも、ひとつじゃないかと思うよ。

そういう意味ではねぇ、僕は科学にも興味を持っていたけれど、
中学生の頃に、クラシック音楽にも興味を持ったの。

クラシック音楽は、人生の最も古き良き友達だと感じているの。

自分がどうして音楽に興味を持ったかはよくわからないのだけど、
特に当時は、モーツアルトが好きで(今はバッハが好き)、

けれどもモーツアルトはなんとなく軟弱で、男の子らしくないイメージがあって、
そういうものが好きだ、と言うのが何だか恥ずかしい雰囲気だったのだけれども、
知り合いの人がモーツアルトが好きと言ったのを聞いて、「好きになっても良いんだ」と思ってね。

学生の頃はアルバイトをして、部屋代と食費と本代、残った分はレコードを買ったりしてね。
そうとうレコードにお金を注ぎ込んだのだけど、今は邪魔だから捨てろと言われていて。
けれども捨てるのが忍びない感じでねぇ。

音楽との付き合いは長いのですが、クラシック音楽の場合、奥行きが深い。
飽きないというか、汲めども尽きぬ、というか。

そういう意味で、ずっと長い付き合い。
自然なんかも、そういうところがあったと思う。

科学に興味を持ったというのと、クラシック音楽も(今はジャズも聞くけど)
僕にとっては、ほとんどワンセットでね。

勉強するときは、音楽聞きながらだったね。科学を勉強するだけでは寂しい。
友達には、お前のはBGMじゃなくて、BGS(Background Study)だと言われてね(笑)。

音楽が隙間を埋めてくれたんだ。
音楽自身も、それだけで楽しめる。

それは非常に僕にとって、幸運だった。

そういうものが、その後いろいろ、音楽もクラシックだけでなくジャズとか、
絵とか、本とか、少しずつ興味が増えていって。

そういう意味では、科学も、そういうもののひとつ、という風に考えています。

―土佐さんと科学との関係性は、「友人」という言葉で言い表せるのですね。

そうだね。お友達に、役に立つ・役に立たないは、ないもんね。
ある人もいるかもしれないけど。
好きな友達には、嬉しいとか、会いたくなる。

そういう意味で、科学と天文学と音楽は、
僕にとって、古くから長いつきあいの友人ですね。

だからまぁ、これから歳と供に、ものを捨てないといけなくなるけど。
そうだな、最後はCDが残るかな。

CDの音を聞くと、レコードよりも音が良いのね。
だからレコードで持っているものを、CDで買いたいわけ。

すると、ダブルわけね。
それがなかなかね、悔しいと言うか、申し訳なくって。
CDがたまってきちゃったのだけど。

最後はそのCDを聞きながら、お別れするってことになるんじゃないかねぇ(笑)。

―汲めども尽きぬ魅力にあふれた「友人」たちとの深いつきあいが、
 個人としての人生を豊かなものにし、天文学者としての研究成果を生み、
 「宇宙を身近に」する仙台市天文台台長としての成果を生むのですね。
 土佐さん、本日はどうもありがとうございました。



土佐誠さん=仙台市天文台展示室にて=

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