終戦記念日 in 長崎
長崎市にある爆心地公園。
黒御影石は、中心地を示す原爆落下中心碑だ。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、
この中心碑の上空約500メートルで、
プルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発した。
原爆落下中心碑にカメラを向けていた赤いシャツの少年が、
一度その場を去った後、また戻ってきて黙祷を捧げている。
500メートルって、どれくらいの高さなんだろう?
上空を見上げて、私は想像してみようとする。
当時幼い子どもだった、おばちゃん(祖父の下から2番目の妹)によると、
原爆が落ちた時は、ちょうど空襲警報が解除された後で、
みんな防空壕から出てきて、家の中で遊んでいたそうだ。
「爆発した後のことは、何も覚えていない」おばちゃんだが、
畳が天井まで浮いて、また同じ場所にはまったことは覚えていると言う。
畳の下には、板を敷くものらしいのだが、
その板と畳の順番がなぜかきれいに反対になって、
畳の下にあるはずの板が、畳の上にのっかっていたそうだ。
その後はすぐに、無我夢中で防空壕に非難したという。
祖父は8人兄弟の長男で、このおばちゃんとは、歳が20以上も離れている。
戦争に行った若き頃の祖父は、「きっともう駄目だろう」と
あきらめながら長崎に帰ってきた。
すると、家族全員無事どころか、
一人家族が増えていた(戦後間もなく末妹が生まれた)ので、
祖父はたいそう驚いたらしい。
「それが我が家のエピソードなのよ」とおばちゃんは話していた。
当時、この松山町には約300世帯、
1,860人余の一般市民が生活していたが、
町内に居た者は、偶然に防空壕に避難していた
9歳の少女を除いて、全員が即死したそうだ。
その松山町で、今私は、
今夜流す「精霊流し」飾りつけの準備をしている。
竜に蛍光ペンで、色をつけていく。
冷房が効いた、涼しい部屋の中で。
すると、遠くで小さな音が聞こえた気がしたので、
時計を見てみると、時計はちょうど正午を指していた。
わずかな時間ではあったが、そっと黙祷を捧げた。
「黙祷はすべきものだ」と思ったわけじゃない。
なんとなく、黙祷をしないと、不自然な気がした。
それだけだった。
仙台にいたら、「黙祷しようかなぁ」と思っても、
きっと、実際には黙祷まで、しなかっただろう。
人の感情や行動は、想像以上に
場に依存するものなのかもしれない。
これまで積み重ねてきた、
個人の過去の履歴をふっとばすくらいに。
長崎には、そう思わせる何かが、たくさんある。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 終戦記念日 in 長崎
このブログ記事に対するトラックバックURL: https://field-and-network.jp/mtos/mt-tb.cgi/3041