終戦記念日 in 長崎
![080813-400.jpg](http://shinbun.fan-miyagi.jp/diary/images/in/080813-400.jpg)
長崎市にある爆心地公園。
黒御影石は、中心地を示す原爆落下中心碑だ。
1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、
この中心碑の上空約500メートルで、
プルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発した。
原爆落下中心碑にカメラを向けていた赤いシャツの少年が、
一度その場を去った後、また戻ってきて黙祷を捧げている。
500メートルって、どれくらいの高さなんだろう?
上空を見上げて、私は想像してみようとする。
当時幼い子どもだった、おばちゃん(祖父の下から2番目の妹)によると、
原爆が落ちた時は、ちょうど空襲警報が解除された後で、
みんな防空壕から出てきて、家の中で遊んでいたそうだ。
「爆発した後のことは、何も覚えていない」おばちゃんだが、
畳が天井まで浮いて、また同じ場所にはまったことは覚えていると言う。
畳の下には、板を敷くものらしいのだが、
その板と畳の順番がなぜかきれいに反対になって、
畳の下にあるはずの板が、畳の上にのっかっていたそうだ。
その後はすぐに、無我夢中で防空壕に非難したという。
祖父は8人兄弟の長男で、このおばちゃんとは、歳が20以上も離れている。
戦争に行った若き頃の祖父は、「きっともう駄目だろう」と
あきらめながら長崎に帰ってきた。
すると、家族全員無事どころか、
一人家族が増えていた(戦後間もなく末妹が生まれた)ので、
祖父はたいそう驚いたらしい。
「それが我が家のエピソードなのよ」とおばちゃんは話していた。
![080813-41.jpg](http://shinbun.fan-miyagi.jp/diary/images/in/080813-41.jpg)
当時、この松山町には約300世帯、
1,860人余の一般市民が生活していたが、
町内に居た者は、偶然に防空壕に避難していた
9歳の少女を除いて、全員が即死したそうだ。
その松山町で、今私は、
今夜流す「精霊流し」飾りつけの準備をしている。
竜に蛍光ペンで、色をつけていく。
冷房が効いた、涼しい部屋の中で。
![080815-03.jpg](http://shinbun.fan-miyagi.jp/diary/images/_in/080815-03.jpg)
すると、遠くで小さな音が聞こえた気がしたので、
時計を見てみると、時計はちょうど正午を指していた。
わずかな時間ではあったが、そっと黙祷を捧げた。
「黙祷はすべきものだ」と思ったわけじゃない。
なんとなく、黙祷をしないと、不自然な気がした。
それだけだった。
仙台にいたら、「黙祷しようかなぁ」と思っても、
きっと、実際には黙祷まで、しなかっただろう。
人の感情や行動は、想像以上に
場に依存するものなのかもしれない。
これまで積み重ねてきた、
個人の過去の履歴をふっとばすくらいに。
長崎には、そう思わせる何かが、たくさんある。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 終戦記念日 in 長崎
このブログ記事に対するトラックバックURL: https://field-and-network.jp/mtos/mt-tb.cgi/3041