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記者・大草芳江が活動をつづります

2008年8月15日

終戦記念日 in 長崎

カテゴリ:フォトギャラリー

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長崎市にある爆心地公園。
黒御影石は、中心地を示す原爆落下中心碑だ。

1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、
この中心碑の上空約500メートルで、
プルトニュウム原子爆弾(ファットマン)が爆発した。

原爆落下中心碑にカメラを向けていた赤いシャツの少年が、
一度その場を去った後、また戻ってきて黙祷を捧げている。

500メートルって、どれくらいの高さなんだろう?
上空を見上げて、私は想像してみようとする。

当時幼い子どもだった、おばちゃん(祖父の下から2番目の妹)によると、
原爆が落ちた時は、ちょうど空襲警報が解除された後で、
みんな防空壕から出てきて、家の中で遊んでいたそうだ。

「爆発した後のことは、何も覚えていない」おばちゃんだが、
畳が天井まで浮いて、また同じ場所にはまったことは覚えていると言う。

畳の下には、板を敷くものらしいのだが、
その板と畳の順番がなぜかきれいに反対になって、
畳の下にあるはずの板が、畳の上にのっかっていたそうだ。

その後はすぐに、無我夢中で防空壕に非難したという。

祖父は8人兄弟の長男で、このおばちゃんとは、歳が20以上も離れている。
戦争に行った若き頃の祖父は、「きっともう駄目だろう」と
あきらめながら長崎に帰ってきた。

すると、家族全員無事どころか、
一人家族が増えていた(戦後間もなく末妹が生まれた)ので、
祖父はたいそう驚いたらしい。

「それが我が家のエピソードなのよ」とおばちゃんは話していた。

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当時、この松山町には約300世帯、
1,860人余の一般市民が生活していたが、

町内に居た者は、偶然に防空壕に避難していた
9歳の少女を除いて、全員が即死したそうだ。

その松山町で、今私は、
今夜流す「精霊流し」飾りつけの準備をしている。

竜に蛍光ペンで、色をつけていく。
冷房が効いた、涼しい部屋の中で。

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すると、遠くで小さな音が聞こえた気がしたので、
時計を見てみると、時計はちょうど正午を指していた。

わずかな時間ではあったが、そっと黙祷を捧げた。

「黙祷はすべきものだ」と思ったわけじゃない。
なんとなく、黙祷をしないと、不自然な気がした。
それだけだった。

仙台にいたら、「黙祷しようかなぁ」と思っても、
きっと、実際には黙祷まで、しなかっただろう。

人の感情や行動は、想像以上に
場に依存するものなのかもしれない。

これまで積み重ねてきた、
個人の過去の履歴をふっとばすくらいに。

長崎には、そう思わせる何かが、たくさんある。



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