「自分」へのインタビュー 2008
2008年も残すところ、あと1日となった。
1年に1度くらいは、「自分」を振り返ってみても、良いかもしれない。
そこで、「自分」のスタンスを対象化すべく、「自分」へのインタビューを試みた。
以下が、そのやりとりである。
リアリティーって、なんだ?
― それは、「生きている」実感だろうか。
「生きている」実感って、なんだ?
― それは、「死にそうだ」という実感を、対象化した実感だろうか。
「死にそうだ」という実感って、なんだ?
― それは、「感じる心」と「生みだす手」の喪失、だろうか。
「感じる心」と「生みだす手」の喪失って、なんだ?
― それは、「自分」というものの喪失、だろうか。
「自分」というものの喪失って、なんだ?
― それは、「いつもここからはじまるのだ」という「基点」を創れないこと、だろうか。
「いつもここからはじまるのだ」という「基点」って、なんだ?
― それは、今の「わたし」も、過去の「わたし」も、常に繰返し通ってきたはずの1点、だろうか。
今の「わたし」も、過去の「わたし」も、常に繰返し通ってきたはずの1点って、なんだ?
― それは、「わたし」が「わたし」であること、だ。
「わたし」が「わたし」であることって、なんだ?
― 「わたし」が「わたし」を認めること、だ。
「わたし」が「わたし」を認めることって、なんだ?
― 「わたし」が「わたし」以外のものは「わたし」ではないと認めること、だろうか。
「わたし」が「わたし」以外のものは「わたし」ではないと認めることって、なんだ?
― 「あなた」の存在を認識すること、だろうか。
「あなた」の存在を認識することって、なんだ?
― 社会そのものを認識すること、だろうか。
社会そのものを認識することって、なんだ?
― わたしがここにいる前提を認識すること、だろうか。
わたしがここにいる前提を認識することって、なんだ?
― わたしがここで生きている、ってことを実感すること、だろうか。
だから、わたしは、それらを描写したい。
わたしが「何をどうしたいのか」、
起業後、3年間の活動の中で対象化した階層は、以上の通りである。
わたしの前提はここにある。ここがわたしの基点である。
目に見える尤もらしい何かにしがみ付くその手を離さねば、基点は一点に定まらない。
目に見える尤もらしい何かを、外からひっぱってくれば、基点は直ちに消滅する。
目に見える尤もらしい何かより、その基点は柔らかく、確かな輪郭を持ってはいない。
しかしながら、外に見える尤もらしい何かより、しなやかで深い安定感があるようだ。
言葉そのものに意味はなく、そのスタンスに、「わたし」の前提がある。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 「自分」へのインタビュー 2008
このブログ記事に対するトラックバックURL: https://field-and-network.jp/mtos/mt-tb.cgi/5774