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2016年 06月 29日 (水)

「日高見」醸造元・平孝酒造社長の平井孝浩さんに聞く:「日本酒は自分を育てた師匠」 取材・写真・文/大草芳江

2012年8月22日公開

日本酒は自分を育ててくれた師匠

平井 孝浩 Takahiro HIRAI
(株式会社平孝酒造 取締役社長)


宮城県石巻市清水町の地で1861年(文久元年)に創業した平孝酒造。

今でこそ「日高見」の銘柄で全国的に知られる蔵元だが、
取締役社長の平井孝浩さんが5代目として継いだ当時は廃業寸前だった。

そこからどのようにして「日高見」は生まれたのか。

「人は仕事を通して成長する。自分の場合、それが日本酒だった」
と語る平井孝浩さんに、そのプロセスを聞いた。

<目次>

■平孝酒造・社長の平井孝浩さんインタビュー:「日本酒は自分を育ててくれた師匠」
場面さえ変えれば、俺だってできるはずなんだ
こんなことをするために戻ったんじゃない
自分もこういう市場で戦いたい
売れない恐怖心を酒に教えられる
「日高見」はすぐにできたわけでない
このままでは化けの皮が剥がれてしまう
自分に人生を教えてくれた師匠

■平孝酒造・酒造り体験レポート:「良い酒は人の和が醸し出す」
酒造りの基本は「人の和」
ゴミが散らかっていても平気な人は酒造りができない
和醸良酒


場面さえ変えれば、俺だってできるはずなんだ

―平井さんがリアルに感じる日本酒ってそもそも何ですか?

 日本酒は自分自身を育ててくれている師匠だと思っています。どんな職種でも人は仕事を通して成長していくと思いますが、私の場合、それが日本酒だったのです。

 私は、東北学院大学経済学部の出身ですが、不経済な学生でしてね(笑)。無気力・無関心・無感動な学生でね。特に目的意識もなく、ただ漠然と、東京の会社に就職しました。

 そこで初めて社会の厳しさを突き付けられました。皆、ピラミッド型社会の中で、上を目指して本気で頑張っているんだな、と。

 きっと「いずれ自分は(家に)戻るだろう」という甘さも、自分にはあったのでしょう。学生時代から本気で頑張っている人たちとの実力は、雲泥の差でした。皆、まわりは早慶出身ばかりで、格好良いし。

 「お前とは違うんだ」という現実を見せつけられた感じがして。だから、何かそうじゃないことをぶつける何かが欲しい気持ちが、潜在意識にはあったんだと思うのです。

 自分の実力を痛感しつつも、社会人生活にも慣れ、2年が経過した頃のことでした。突然、東京に親父がやって来て、「蔵を閉じる」と言い出したのです。

 社会人になってから、自分の家業を考えるようになってきた時期でもあり、また、門前の小僧ではありませんが、物づくりの魅力を感ずるようになっていた頃でもありました。「家業も捨てたものではない」と考えるようになっていたので、これには大変驚きました。

 でも、23、4歳の若造でしょう?もう勢いだけで、あるのは気持ちだけ。「なぜ急に辞めると言い出すんだ?親父にはできなくても、俺ならできるはずだ」と反発して。

 「じゃあ、どんな方針で経営を立て直すんだ?お前に何ができるんだ、できるわけないだろう」と親父から言われて、「だったら、俺がやってやる」と。若気の至りでしたね(笑)

 そうやって、社会人になって感じた社会の厳しさ、そして会社の同期の連中のやる気を、蔵に戻って自分自身で実践しようと思ったのです。


こんなことをするために戻ったんじゃない

 その当時は、今のように酒の味を比べて楽しむような時代では、全くなかったのですよ。等級制度がまだ存在していた時代で、「1級だ、2級だ。この蔵は2級が旨いんだよね」。そんな程度しかなかったのです。

 焼酎ブームで、社会人はカルピス割とか烏龍ハイとかそういうものばかり飲んでいて。また、アサヒスーパードライのブームが起こった時代でもありました。

 どちらかと言うと日本酒は、「10本買えば1本おまけ」のような条件戦争にさらされ、企業の体力自体が弱り、いろいろな蔵元がたくさん廃業し始めた時代でもあったのです。

 「こんなにひどいんだ・・・」と、自分も帰って来てから現実に直面するわけでしょう。けれども、自分には何の方針もないわけだし。できることはもうトラックに酒を満載にして売り歩くしかない状況。ドサ回りみたいに、酒屋さんまわりをしていました。

 「そんな酒、いらねえよ」と酒屋さんには断られて、俺は「置いてくれるまで帰らない」と押売して、「しつこいな。じゃあ10本置いていけ、でも1本つけろよ」、そんな感じ。

 でも一度、自分は東京にいたものだから、「俺は、こんなことをするために帰ってきたんじゃない。俺は何をしに帰ってきたんだよ?」と思うわけですよ。

 すると、だんだん情けなくなってきて。売れないし、つくった酒も残っているし、社員のお給料だって払えなくなってくるし。本当に廃業寸前だったんです。「やばい、どうするかな」と常に恐怖でした。

 昭和60年台は、オイルショックも終わってバブルな雰囲気。流通もだいぶ整備されて、お酒だって、ライフサイクルもほとんど今と変わりがない。酒屋さんに行けば、日本酒だけじゃなく、ビールも焼酎もワインも何でもあった時代でした。

 だから当然、日本酒の消費量は落ちてくるんです。特に石巻のような地方都市では、「CMに出るような酒が良い」と消費者の人たちから言われて。当時、うちの酒は、「新関(しんぜき)」という名前だったのだけど、「地元の酒は駄目だ」という雰囲気があったのね。

 今までやってきた結果として、親父が辞めたくなる気持ちもわかるよな、と思いました。けれども、俺は帰って来た以上は、やるのだ。とにかくこのままじゃダメだ。どうしたらいい?その時、いろいろ必死になって考えたわけです。


自分もこういう市場で戦いたい

 自分が東京の会社にいた時、焼酎ブームの一方で、「地方の酒でも良い酒がある」という地酒ブームも起こっていました。

 宮城で言うと、浦霞さんの「禅」や一ノ蔵さんの「無監査」、山形では「出羽桜」さん、新潟のお酒では「越乃~」が付けば何でも売れたみたいな雰囲気があって。そんな華やかな市場があったんです。

 自分も家に戻る時は、そんな市場で戦いたい、という気持ちがありました。けれども、東京で「うちの『新関』を知ってる?」と聞くと、「『大関』のパクリ?」とか言われて、もう悔しかったですね。

 「自分も戻る時は、こういう市場で戦ってみたい、皆が知っている、宮城のお酒になりたい」、そんなおぼろげなイメージだけはあって、帰ってきたんです。

 ところが実際に帰ってみると、それどころじゃない。経営はアップアップの状態で、酒は押売みたいな感じで売るしかない状況。全く、そんな東京でどうこうできるほど、現実は甘くない。

 その時、働く時の厳しさであったりを、まず最初に酒から学びました。もっと小学校の頃から俺に教えてくれよ、って感じ(笑)

 当時、地方の市場では、まだまだ良い酒が飲まれる時代ではありませんでした。とにかく、このままでは駄目だ。やっぱり石巻の市場だけでなく、まずは大都市圏から、消費のアプローチをしなければいけない。そこで生まれたのが、「日高見」なんです。

 いろいろ名前を考えたのですが、24歳くらいの若造が考えることだから、一生懸命考えても、良い発想なんて生まれてこないでしょう?くだらない名前しか出てこない。思いついても、既にほとんどが商法登録でとられている。駄目だ、ちくしょう。

 すると、たまたま廃盤商品に「日高見」を見つけたんです。「日を高く見る」、いいねぇ。調べてみると、この地域との深い関わりがありました。すごく良い名前だ、これで行こう。

 そこで、それまではいろいろな名前の商品を出していたんですが、「日高見」に一本化していったんです。それが、平成2年のことでした。


売れない恐怖心を酒に教えられる

 そして仙台や東京、それ以外のいろいろなところに、「日高見」という商品があることをアプローチしきました。

 あの当時も、本当に少なかったけど、酒屋さん主催の酒を楽しむ会が、あったのです。そこに参加させてもらって、ゆっくり、自分のお酒をアプローチしていきました。

 何か動かないと、何もならないでしょう?そういうところにプローチすることで、販路を広げていく。良い意味で、地元からもう少し広い視野を持たないと駄目だと、まずは考えたのです。

 ところが、酒の会に自分の酒を持って行っても、「美味しい」と言ってもらえないんです。お客さんに「まぁ、こんなもんだろうね。いくらすんの?え、三千円もするの?こっちの酒、飲んでみなよ。千円でこんなに美味いよ。どっちがうまい?」とか言われて、悔しい思いで「こっちですね」と(別の酒の方を)答えたり。

 今の酒質では駄目だ。酒質を鍛えていくしか無いな。ただ、経営的にはいつも切羽詰まった状態でしたから、今みたいにオーナー杜氏(オーナーである蔵元が、職人責任者である杜氏を兼務すること)はなかなか現実的ではなかったんです。だって、売る人がいないと、すぐにお金を替えないと、すぐに潰れる状態でしたから。

 やっぱり理想を追い求めるためには、商売の順番ってあると思うんですよね。財務体制がしっかりした上で、オーナーが酒を作るのはいいけれど、財務体制がしっかりしないまま、いくらオーナーが酒をつくっても、自分で広報できないのでは駄目なんです。

 当時は、そんな経営状態ではなかったので、もしあの時、自分がオーナー杜氏として蔵に入っていたら、すぐ潰れていたでしょうね。結局ものを売ってお金に変えないと、やりたいことはできないんです。生活すら、できない。廃業するかもしれないという危機感。

 いろいろな壁はあったのですが、やっぱり自分はここに戻ってきた以上、サラリーマン時代ではできなかった戦いをやってみよう。その時、酒から学んだことは、ものが売れない時の恐怖心。酒に勉強させてもらいました。

 その当時、宮城には酒蔵が45社程ありましたが、今では25社程度しか残っていません。ふるいにかけられて20社以上なくなっているから。その意味では、ふるいに残った蔵は、それなりに頑張ってきた蔵です。

 今はまた時代が変わって、いろいろな蔵のお酒を比較して楽しむ時代になっています。すると、オーナー杜氏みたいに、自分でつくることが、自分のつくりたいお酒と直結するからそれは良いのですが。自分が戻ってきた当時は、時代背景と経営体制で、それはできなかったということです。


「日高見」はすぐにできたわけでない

 「日高見」はすぐにできたわけでないんです。まず、酒質を強くして、こだわるための準備に約10年の歳月を費やしました。昭和62年に戻ってきて、「日高見」という商品を世に出したのは平成2年のこと。

 あの時、長期経営計画を考えていたんです。「日高見」に絞ろう。でも、どんな商品に育てるんだよ?自問自答していました。浦霞や一ノ蔵、出羽桜のようなマーケットで戦って、「美味しい」と言ってもらえるような酒になりたい。ならば今の蔵の中で何ができるんだ?

 当時、「吟醸」という名前自体は通っていました。よし、吟醸で行こう。吟醸というわかりやすい名前と、わかりやすい値段で出そう。日高見=吟醸=良い酒、というイメージを一般市場に浸透させる。かつ、手が届くようなリーズナブルな価格帯で出す。

 その後、ちょうど級別廃止の流れがありました。平成元年に廃止、平成4年から法律に組み込まれる。法改定まであと2年。これからは級別でなく、特定名称酒の肩書きで酒を選べるようになる。では、まず吟醸でイメージを定着させた後、純米、本醸造で行こう。

 つまり、「日高見」に絞って売る時、大事なことは、商品価値をつけていくことなんです。ラベルもあれば中身もある。そして、どうやって売っていくかの販売作戦もいろいろある。そういうことも酒から学びました。

 そうやって、いろいろ試して「日高見」に統一して、吟醸酒でスタートしたんです。市場も、仙台に行ったり東京に行ったりして、首都圏で自分のお酒を知らしめる工夫をしました。それでもお酒が売れていないので、ドサまわりで酒を売って凌いでいました。


このままでは化けの皮が剥がれてしまう

 自分が戻ってきてから約10年。そうこうしている間に事態はどんどん変わって、よい風も吹いてくるようになりました。酒屋さんが「これまでのやり方じゃ駄目だ。地酒を一生懸命売らないといけない」という時代に変わってきたんです。

 たまたまNHK大河ドラマ「炎立つ」に関連して、河北新報で「日高見の時代」という連載が始まりました。連載で「酒にも日高見がある」と紹介され、仙台からの問合が増え、石巻出身の飲食店からも「地元で一緒に頑張ろう」という協力者が現れました。

 酒はできても、商品だけでは売れない。人との出会いで仙台から発信されました。とりあえず潰れずに、何とかこれでやっていけそうだ。やっと明るい兆しが見えてきたのです。

 ところが反面、昔のように地元で「買ってくれ」と押売するようなやり方はもう通用しなくなっていました。東京で人を通して自分の酒を買ってもらうには、「このお酒は他と何が違う?どんな米でどんな酵母を使って...」等々の質問に答えられなければなりません。

 今でこそ嬉しい質問なんですが、当時の自分は、全く答えられなかったんですよ。酒の中身を知らずに、単に「吟醸、精米歩合○%」といった初歩的なことだけで打っていて。でも、そんなハッタリじゃ、これからは通らないよな。営業するにも、技術営業じゃないと駄目だ。

 単に酒を売るのではなく、「宮城といえば、日高見」と言ってもらえる酒にするには、人前できちんと説明できなければいけないんです。これじゃあ、やばい、化けの皮が剥がれてしまう、と思ってね。よっぽど地元で押売する方が、楽ですよ。

 普通の蔵元は、農大や醸造研究所で勉強した後、蔵に戻ってくるのが一般的なスタイルなんですが、自分は学院の経済学部出身だから、酒のことが全然わからない。酒の本を読めば良いレベルじゃないし。今からでも醸造研究所に行って勉強したいけど、もう戻ってから10年も経っているから、やっぱり、それは許されない状況でした。

 もっと突っ込んで何をしたらいいか、わかりませんでした。つくって欲しい酒は、飲んで判断するしかないですし。例えば杜氏さんから「この酒どう?」と聞かれても「こんな酒じゃ駄目だ」としか言えず。「絶対だめ?じゃあ、どんな酒をつくりたいの?」と聞かれても、飲食店さんに杜氏を連れて行き「こういう酒をつくりたい」としか言えない状態。「なんでこんな酒なんだべな?」と杜氏さんに言われて。このままじゃ、やばい。またもや、現実を突き付けられたのです。

 そんな中、人生の転機が訪れました。たまたま税務署から「県内蔵元で醸造研究所に行っていないの、あなたくらいだよ。せっかくこれまで企業体質を変えてきたのだから、行って勉強してきたら?」と推薦があったんです。これはラッキーだと思い、背中を押されるまま醸造研究所で勉強することになりました。

 そうしたら、もう目から鱗でしたね。これまで点だったものが線につながった。すると、例えば貯蔵にしても、もっと気を使わなければいけない、そのためには設備をつくらなければいけない、と気づくようになったんです。


自分に人生を教えてくれた師匠

 いろいろな経験を社会人の皆さんが仕事を通して学ぶように、自分は酒を通して、いろいろなことを経験させてもらいました。それは、人間関係だったり、経営方針だったり、酒質だったり。

 簡単に言うと、それは挨拶から始まりました。礼節を重んずる商売ですから、人に信用してもらうためには、礼節が大事。酒を通してお客さんからそれを教えられました。その上で、「他とは違う何か」とは何なのか。

 ただ単に「売れれば良い」だけなら、それでも良いと思ったのですが、「こういう風に売りたい」というイメージが、日高見のお酒と付き合いながら、次第に鮮明になっていったんです。

 「魚でやるなら日高見だっちゃ」。酒を通して映像化されていきました。商品ひとつ一つのストーリーも、そうした経験値の中から生まれてきました。

 人生勉強だよね。もし諦めていたら、この蔵は潰れていました。諦めたら駄目だということも、やっぱり酒が教えてくれたんです。

 自分の好きなことで飯を食っていることは、幸せなことです。何から何まで全てを自分でつくるから、酒は、ものづくりの楽しさも教えてくれました。

 これから海外に行けば、日本の歴史も勉強しなければいけないですね。寿司や魚の勉強もしなければいけないです。そういう意味でも酒に勉強させられ、酒に育てられているんです。

 魚でやるなら日高見だっちゃ。世界三大漁場の一つである石巻のお魚とうちの酒「日高見」の組み合わせを、季節に合わせながら、ぜひ楽しんで。お酒を通して食生活を楽しんでもらいたいですね。

 太陽の恵みを受ける日高見国、太陽の恵みを受ける酒って、かっこいいよね。そういうのが自分とリンクしていたのかもしれないですね。皆に楽しい気分になってもらう酒。

 まだまだ全国の皆様に楽しんで欲しいと思っています。宮城県の誇りであるような蔵元になりたいです。

 そして、自分に人生というものを教えてくれた師匠には、他のどの師匠にも負けないよう、光り輝いてもらいたいです。

―平井さん、ありがとうございました



平孝酒造:酒造り体験レポート:「良い酒は人の和が醸し出す」

【写真1】平孝酒造(宮城県石巻市)外観

 「日高見」醸造元の平孝酒造(宮城県石巻市)で今年1月、蔵に泊まり込みで、酒造りを体験取材させていただいた。

 伝統的な酒造りを行う蔵では、自然な低温環境である冬を利用して日本酒を仕込む「寒造り」が行われている。日本酒を造る蔵人たちとその長である杜氏が、冬の期間中、蔵に泊まり込み、朝食前の仕込みから夕食まで共同生活をしながら酒を醸す。

 もちろん、それに比べれば1泊2日は短い時間であるものの、本取材では酒造りだけでなく、朝食・昼食・夕食、そしてお昼寝まで、蔵人たちの共同生活を体験させていただいた。美味しい日本酒はどのようにして生まれるのだろう。現場ならではのプロセスを取材した。


酒造りの基本は「人の和」

【写真2】夕食のようす

 その日の仕込みが一段落した後、夕食の席にお邪魔したときのこと。蔵人たちはその日絞ったばかりの日本酒で晩酌しながら、和気あいあいと食卓を囲んでいた。最年少20代、最年長70代。その年齢差を感じさせない親しげな会話は、まるで仲の良い大家族のようだ。

 驚いたことに、テレビ音に紛れてほとんど著者には聞こえない小さな声も、蔵人たちはお互いの声をよく聞き取っていた。その会話によく耳を澄ませてみると、冗談と冗談の間に「ちょっと辛すぎるな」「サバケ(米の散り具合)が少し良すぎたから(米の)吸水時間を少しあれしてくれ」などと、どうやら酒造りの情報交換がなされているようである。

 酒造りで一番大切にしていることは何か。そう尋ねると、蔵人たちは異口同音に「人の和が一番の基本」と答えた。杜氏の吉田啓一さんは「酒は一人で造るものではない。皆が意見を持ち合って、話の中から良い酒に向けていく。だから、話をせずにというのでなく、普段から和気あいあいとしていなければね」と言う。

 日本酒は、製造過程毎に役割を分担して造られる。洗米・給水・蒸しを担当する「蒸番」、麹(こうじ)米をつくる「麹師」、醪(もろみ)を管理する「醪係」、しぼり担当の「槽(ふな)頭」、現場をまとめる「頭」、総指揮をとる杜氏。

 蔵人たちの連携プレーで、1ヶ月以上かけて1本の日本酒は造られる。だからこそ、「人の和」が基本というわけだ。

【写真3~8】(上段:左上から順に)洗米・給水、蒸し、麹米づくり、(下段:左上から順に)醪の櫂入れ、発酵する醪、しぼり機


ゴミが散らかっていても平気な人は酒造りができない

【写真9】落ちた米粒を掃除する吉田杜氏さん

 そんな酒造りの繊細さを感じさせるエピソードがあった。麹米を麹室から醪発酵室へ運ぶ時に落ちた、わずか数粒の米。その米粒を直ぐ掃除する吉田さんの姿を見つけ、思わずその意味を尋ねた。すると吉田さんは「ゴミが散らかっていても平気な人は、酒造りができない」と言う。

 「日本酒を造ることは、酵母が働きやすい環境をつくること。だから、それぞれの酵母に合う好環境を如何につくってやるかを常に考えながら酒を造ることと、ゴミが落ちていることに気がつくことは、どこかでつながっている」と吉田さんは語る。

 そもそも日本酒は、米を発酵させて造られる。発酵とは、「酵母」という微生物の働きによって、アルコールと二酸化炭素が生成される自然現象だ。しかし米には糖分がないため、そのままでは発酵しない。そのため日本酒は、まず米を麹の力で糖分に変え、そこに酵母を加えて発酵させるという、極めて複雑でデリケートな仕組みによって造られる。

 「だから、教科書通りにいくら(最終工程の)醪の温度だけ厳密にコントロールしたとしても、醪の中に入っている(その前工程の)ものがいい加減なら駄目なんだな。途中でまずい点があれば、酒に必ず現れる。

 だから、普段から各部でお互いに気兼ねなく意見を言える雰囲気が必要なんだ。1~2タンク造るだけなら良いけど、約半年間かけて120タンクも造る長丁場だから、やっぱりお互いに相手を思いやりながらやっていかないとね。ある意味、家族以上の生活をしている」と吉田さんは話している。


和醸良酒

【写真10】お茶飲み部屋で休憩する蔵人たち

 昨年の東日本大震災では津波被害もあった同蔵。設備等を再建しながら、今年も酒造りを行った。震災で仕事を失い、同社に新規雇用された20代の若者2名に蔵の印象を聞くと、「ここは人も良いし、楽しい。皆、冗談ばかり言う」「ファミリーだからね」と笑う。

 それを聞いた麹師の小鹿泰弘さんが「和醸良酒」という言葉を教えてくれた。「良い酒は人の和が醸し出す」という意味で、昔から酒造りで大切な基本と言われているそうだ。

 取材の最後に、休憩中のお茶飲み部屋で、杜氏の吉田さんに日高見のこれからについて聞いた。「良い酒を目指す人達ばかりだから、これからも日高見は伸びていくと思う。俺は今年で引退だけど、宮城県で一番になれるかな?あれ、それは言い過ぎか(笑)」

 その瞬間、一緒に居合わせた蔵人たちから大爆笑が起こった。なんだ、皆テレビの相撲観戦に集中していたのかと思いきや、実は、ちゃんと、吉田さんの声が皆の耳には届いているのだ。

 25年間、平孝酒造で杜氏を務めた吉田さんの引退後は、新杜氏となる小鹿さんを筆頭に30代若手にバトンタッチされる。「皆さんの期待を裏切らないよう造っていくので、これからもどうぞ日高見を応援してください」。そう語る吉田さんと蔵人たちの笑顔が、「和醸良酒」の意味を何よりも物語っているように感じた。



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