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2016年 08月 28日 (日)

科学って、そもそもなんだろう?:科学者の西澤潤一さんに聞く【第2弾】 取材・写真・文/大草芳江

2010年10月05日公開

科学はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか

西澤 潤一 Jun-ichi Nishizawa 
(上智大学特任教授、元東北大学総長)

1926年宮城県仙台市生まれ。東北大学工学部電気工学科卒。東北大学電気通信研究所教授、同所長、東北大学総長、岩手県立大学学長、首都大学東京学長などを歴任。現在、上智大学特任教授。世界の研究者に先駆け1950年代から光通信の可能性に注目し、独創的なアイデアと研究により光通信に必要な基礎技術(※)を考案。「光通信の父」、「ミスター半導体」などとも呼ばれている。00年米国電気・電子学会(IEEE)のエジソンメダル等を受賞。02年にはIEEEの世界で最も権威ある賞「IEEEメダルズ」の第14番目として「西澤メダル」 が創設された。「メダルズ」には、発明王トーマス・エジソン、有線電話を発明したグラハム・ベルら20世紀を代表する科学者の名を冠した賞が13あり、日本人では西澤氏が初めて。最近も電磁波の一種で将来の応用が期待されている「テラヘルツ波」の研究成果を発表するなど、研究の第一線に立つ。

(※)光通信に必要な基礎技術:光通信をするには、発光素子、受光素子、伝送経路の三要素が必要である。この三要素に必要な基本技術である半導体レーザー、pinフォトダイオード、光ファイバー等を、西澤潤一さんは世界の研究者に先駆け1950年代に考案している。

 「科学って、そもそもなんだろう?」を探るべく、【科学】に関する様々な人々をインタビュー
科学者の人となりをそのまま伝えることで、「科学とは、そもそも何か」をまるごとお伝えします


光通信や半導体などの研究で世界的に有名な科学者・西澤潤一さんに聞くインタビューシリーズの第2弾。
そもそも私というものはどこから来て、そしてどこへ行くのか。
東北・日本・アジア、そして科学から芸術、歴史や文化まで、幅広く聞いたロングインタビュー。

【関連記事】
科学者の西澤潤一さんに聞く:科学って、そもそもなんだろう?(全4ページ)
 自然科学を人間生活に役立てることが、科学者の特権


※本インタビュー内容を踏まえて頂戴した西澤潤一さんからのコメントを以下に掲載します。
(『学都「仙台・宮城」サイエンス・デイ2010』開催にあたって頂いたメッセージです)
 人間はどこから来たか、どこへ行くのか、というのが、ゴーギャンの作品の一つにある。
 科学はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、ということを考えた人はいるのだろうか。明治期に国立大が出来たとき、英国流の教育でやろうと考えるに至るまで、そしてその後も、ドイツ流がいい、ゲッチンゲン大学がいい、コペンハーゲン流がよい、パリ流がいい、と選択が続いた。いろいろの評価が行なわれただけでなく、日本の学者が議論し合ってどこの大学がいい研究をしているかを把握しようとした。日本ではどの大学がいいかということも絶えず議論があった。東北に大学を作ろうと言うとき、何を研究する大学にしようかとか、誰にやらせるかなど大議論の末、何と愛知県御出身の本多光太郎先生にやらせようということになったのは東大におられた二戸御出身の田中舘愛橘教授だった。いつも大学教授は最高の研究方向をとるように考えられていた。今、こんなことは考えないのは何故だろう。いつも藤田尚明先生を思い出す。
西 澤 潤 一 

<目次>
ページ1:学風は優れた先人によってつくられた
ページ1:東北の大学は、研究を中心にやろう
ページ1:長岡半太郎先生がガウンを着た理由
ページ1:ドイツのゲッチンゲンで第1回の東北大学教授会
ページ1:理屈がつかないことが出てきたら、理屈をつける
ページ1:理屈つかないものに理屈つけて 「八木アンテナ」誕生
ページ1:理屈つかないものに理屈つけて 「KS鋼」誕生
ページ1:総長室で研究させろ 「金研」のはじまり
ページ1:理屈を考えてうまくいった 明るい発光ダイオード
ページ1:八木先生の三男坊と3時間だけ同級生
ページ2:東洋の教育の方が、程度が高かった
ページ2:ヨーロッパに学校ができた1500年前に、アジアには学校があった
ページ2:アメリカに学校ができた2300年前に、アジアには学校があった
ページ2:欧米の方が良いと思っちゃっているところがいけない
ページ2:日本人はどこから来たか
ページ2:我々だってやればできるのだ、と思わないといけない
ページ2:外から見ないとわからない
ページ3:天分見つけてくれた
ページ3:音楽の方は、ダメだと思っていた
ページ3:好きになっちゃったんだよ
ページ3:本物に会って初めてわかる
ページ3:やっぱりたくさん見ないと、よくわからない
ページ3:今まで見た絵の中で一番良い絵
ページ3:しかし、俺もけっこう絵を見る目はあるんだな(笑)
ページ4:気に入った先生につくのは大事なこと
ページ4:現場主義の伝統
ページ4:自覚を忘れると、良い仕事ができない
ページ4:実は新しい元素を発見していた/小川記念園
ページ4:魯迅と藤野先生
ページ4:笑い話みたいな中に、大事な話がいっぱいある


上智大学特任教授、元東北大学総長の西澤潤一さんに聞く


学風は優れた先人によってつくられた

―私事ですが、先日、近畿の技術士会の方と、意見交換をする機会を頂戴しました。
 その際に「東北らしさ、東北大学らしさ」についてのコメントを多く頂戴し、
 そもそも「東北らしさ、東北大学らしさ」とは一体何なのだろう?
 また「らしさ」があるとするなら、そもそも「らしさ」はどこから来たのだろう?
 と改めて不思議に思いました。その辺りについて、西澤さんはどのように思いますか?

東北大学の学風は、
本多光太郎先生が仙台におられたということで
決まっているんですよ。

やはり、優れた先人の先生がいなかったら、
優れた学風はできない。

また、それは呼んでできたものです。
はじめは仙台に誰もいなかったのですから。
だって、大学そのものがなかったでしょう。

当時、青森県二戸ご出身の東大の田中舘先生が、
「仙台に大学をつくるなら、本多が良いだろう」
ということで、本多先生を送り込んだのです。

だから、本多先生の学風が、
仙台の(東北)大学をつくるときの
基本になっているわけです。

その当時から、東北の大学は研究を中心にやろう、
ということが決まっていました。


東北の大学は、研究を中心にやろう

―東北大学を研究大学にした理由は何ですか?
 他の大学は、研究中心ではないのですか?

要するに、東北に農業はたくさんあるから、
農学部をつくる、という話はありました。

しかし全般としては、
東北は何もないところだったんですよ。

本多先生が仙台に来られたけど、
仙台に金属工業は、当時なかったでしょう?

それで、本多先生が仕事をなさってから、
後に東北金属(現・NECトーキン)ができたのです。

一方、ほとんど(東北大学)と同時期にできた九州では、
すでに鉄鋼業やガラス産業が盛んでした。

どちらかと言うと、九州では、
重工業がたくさんできていたのです。

だから、重工業と協力するような学問が良いだろう、
ということで、九州大学は工学部を重点に置きました。
やはり、それが伝統になっているわけです。

(1番最初につくった)東京大学は、
日本の代表的な大学にしようと、
いずれにせよ全国を代表するような恰好で、
そろえていったわけでしょう。

2番目(につくった)京都大学は、
どちらかと言うと、文系の大学なんですよ。
もともと京都は、文系のまち。
最近は工業もずいぶん出てきたけど、
昔は工業があまりなかったですからね。

そして、3番目の東北(大学)をつくるとき、
じゃあ研究をやらせよう、となった。

むしろ工業という現実に、
あまりとらわれない大学ができたわけね。


長岡半太郎先生がガウンを着た理由

ところで大阪と言えば、初代の大阪大学学長は、
誰がどう決めたか知らないけど、
東大の長岡半太郎先生だったかな。

長岡先生は(大阪大学の)開学式の日に、
ケンブリッジ大学のガウンを着て現れました。

今はガウンを着る先生はいないけれども、
旧制二高の教官の写真を見ると、
普通の講義の時に、皆ガウンを着ていますよ。

長岡先生が、ケンブリッジ大学を卒業した時に
着させられたガウンがあったわけです。
「猩々赤」っていう色のガウンですよ。

猩々赤というのは、赤は赤でも、
黒っぽいような、でも派手な赤です。

その猩々赤のガウンを着て、長岡先生は開学式に現れた。
そして先生は「諸君、このアナクロニズム(※)を見よ。
こんなことを大阪大学がしては困る」と言った。

※ アナクロニズム 【anachronism】 時代遅れのもの、時代錯誤。

要するに、自分で変なものをわざと着て行って、
こんな恰好をしちゃダメだよ、形式を重視しちゃいけないよ、
ということを言ったわけです。

つまり、長岡先生あたりがそういうことを、
きっちりとやっておられたのですね。

それで、東北大学の理学部から、
当時の学部長だった真島先生を連れて行き、
長岡先生の次(3代目)の、大阪大学の学長にしたの。

そして、次の理学部長が、八木先生になった。
理学部の化学からは、大阪大学へ、
普通の教官も4,5人行ったのです。

ですから、そういう意味では、
東北大学と大阪大学は、非常に関わりが大きいわけ。

研究大学としては、東北大学は非常に成功したから、
そこで実績を積んでいった先生方を連れて行ったのです。


ドイツのゲッチンゲンで第1回の東北大学教授会

―今なら大学はあることが当前と思いがちですが、
 一番最初に大学をつくるときの気持ちって、
 一体どんな気持ちだったのでしょうね。

やっと外国並みに追いつかなきゃいけない
時代が来たんだ、と思ったんじゃないかな。

今までのやり方を全部変えてしまって、
欧米並みの国にしようと思ったわけですよ。

それで、むこうから教授も呼んだし、
ほかにも、鎖国令が残っていた徳川幕府のうちから、
若者が密出国をして外国に勉強に行っていたのだから。

それで結局、明治になってからは密出国じゃなくなったけど、
だいたい昔は、教授になる前に外国へ行ってきたのだからね。

例えば、東北大学の第1回目の教授会は、
先生方が皆、海外に出ておられたこともあって、
ドイツのゲッチンゲンという町でやったのだよ。

その頃にいた先生方には、本多先生もおられたし、
当時、理学部長だった日下部四郎太(くさかべしろうた)先生も、
ドイツに行って勉強していたわけですよ。

そこで、ゲッチンゲンで第1回の教授会をやった。

これから研究大学として立派な研究をしよう、
ということを、皆で誓い合ったんじゃないかな。


理屈がつかないことが出てきたら、理屈をつける

―では、そもそも研究というものは、どのようなものだと思いますか?

これからの仕事を展開していくときに、
まずは、やっておかなければならないことだよね。

それから、仕事をしていたら、必ずそこに、
わからないことや、予想とは違うことが出てくるでしょう?

そのときに、何だかわからないけどこうなっちゃった、
というのでは、収まらないよね。

ちゃんと根拠がわかるようにしないと、困るわけです。

そして、それをよく見てみると、
どうしてこういうことが起こっているかが、わかるでしょう?

理屈がつかないことが出てきたときには、理屈をつけるんです。

理屈をつけるというのは、別に偉そうなことをするわけじゃなくて、
同じことをもう一回やろうと思ってできなかったら困るわけですよ。

理屈がついていたら、どうしてそうなるかが、わかるでしょう?
同じことをもう一回やってみようと思った時、ちゃんとできるわけです。

だから、自然科学の研究だって理系だって文系だって、
理屈がちゃんとついていなくちゃ、困るわけよ。

そういうやり方は、本多先生や八木先生が
最初にやって見せてくださったから、やれるんであって。

初めての人だったら、どうすれば良いのか、わからないわけです。


理屈つかないものに理屈つけて 「八木アンテナ」誕生

八木先生の仕事も、そうです。

西村という3年生の学生に、
卒業研究でこういうことを調べていくには、
どうしたらいいかをやって見せた。

―具体的に、どのようなことを「やって見せた」のですか?

ここから電波を出して、ここで受けるわけ。

ところが、その間にいろいろなものがあると、
邪魔をするでしょう。

どういうものがあったら、どれだけ邪魔になるか、
調べてみろと、八木先生は西村に言ったわけです。

それで西村は、間にいろいろなものを置いて、
調べてみたわけだ。

すると、邪魔していているはずなのに、
急に1000倍くらいに増えるっていうわけだ。

それで西村は、八木先生の部屋に飛んで行ったのですよ。
邪魔して減るはずなのに、増えているって。
その理屈は、八木先生にもわからなかったの。

どうして増えるんだろう?といろいろ調べてみて。
そしたら、最後に、八木アンテナというものが、
できるはずだということがわかってきたわけ。

それを八木先生が、西村が卒業した後、
ご自分で実験をしながら、それをちゃんと理屈がつくように、
ものごとをはっきり、調べたわけですよ。

理屈がついて、じゃあ、こういうときには、
こうすればよいのだ、とわかったわけだ。

それで、アンテナに使えるぞ、
というのが八木アンテナの第一号になった。

そのときは、世界中の人たちが、
(その理屈が)わからなかったのだから。


理屈つかないものに理屈つけて 「KS鋼」誕生

それを本多先生のときは、金属でやっておられるし。

あの頃、本多先生が一生懸命やっておられたのは、
磁石をつくろうというわけ。

それで、本多先生がいろいろなものを、
少しずつ、混ぜてみるわけよ。
金属なんか、わかんないんだから。

鉄に何か混ぜると何かになるということが、
ひとつの常識になったわけですね。

そのうちに、べらぼうに良いものができたわけです。

その当時、大学にあった磁石よりも、
3倍くらい強い磁石ができたわけよ。

それで本多先生は、その磁石を「KS鋼」と命名した。
KSとは、住友吉左衛門(すみともきちざえもん)のイニシャルです。

住友吉左衛門は、本多先生に研究費を出してくださったの。
それを使って、本多先生は磁石をつくったわけよ。

おかげ様でこういうものができましたと、
感謝の意を込めて、KS鋼と命名されたのです。

住友は、自分の会社もやっていたから、
そういうのができてこないと会社で生産できないじゃない。

つまり、その当時から、産学協同をやっていたわけ。
本多先生の銅像は、金研の前にありますよ。


総長室で研究させろ 「金研」のはじまり

最初は研究所もなかったし、何もなかったのですよ。

あれはちょうど、東北大学ができた頃だから、
だいたい100年前の話だね。

それで本多先生が「金をもらって研究所をつくりたい」と、
当時の学長のところへ、説得に行ったわけよ。

うっかり学長が「それは良い考えだね」と言ったわけだ。

そうしたら、次に学長のところに来た本多先生が、
「もう人間を予約した」「金をいくら使う」と言い出す。

だいたい一番ひどいことを言ったのは、
本多先生は総長先生をつかまえて、
「この部屋で研究する」と言ったのだよ。

―「この部屋」とは、総長室のことですか?

そうだよ。
その部屋は、片平(キャンパス)にまだ残っているじゃない。
昔の木造の建物で、新しい本部の裏手にあるよ。
最初は、「鉄鋼研究所」って言ったんだ。

―よりによって、なぜ総長室なのでしょうか?

他になかったからじゃない?
ふふふ(笑)

それで、その総長先生はびっくりして、
いろいろなところからお金をもらってきた。

その先が、住友だったんで。
今、我々がやったら、いっぺんで怒られるけどね(笑)

それで、鉄鋼研究所ができたんだよね。
そして、どんどん良い研究をしたものだから、
3年たったら、金をすぐ出してやるぞとなった。

そのときに、金研(金属材料研究所)になったのかな。
その当時、たしか30万円の研究費をもらったんだ。

―わずか3年間で、皆が認めるくらいの研究成果が出たのですね。

外国の磁石より3倍も強い磁石なんかつくったから、
皆が喜んじゃったわけじゃない?

ついでに金研に行って教えてもらいましょう、
というのが、住友から来たりね。

京都大学の講師をやっていた人が、
東北大学に来て、何になったと思う?

「雇い」になったんだよ。
格が下がったんだよ(笑)
その先生は、村上先生という先生だよ。

―格が下がっても来たいと思うほど、魅力的な研究所だったのですね。

そうそう。


理屈を考えてうまくいった 明るい発光ダイオード

―西澤さんも昔、金研にいたことがあると聞いたことがあります。

あったんですよね。
名前を貸したんだよ。

だから外で、金研での仕事をやっていたのだから。
「金属間化合物」という仕事をやっていたのだよ。

―「金属間化合物」の仕事とは、どのようなものですか?

金属と金属の間で化合物をつくる、
ということをやっていたの。

それでひとつは、発光ダイオードをつくったんだ。

―以前インタビューさせて頂いた明るい発光ダイオードのお話ですか?

うん。そのことだよ。

そして、その時に良いものができたはずだから、
皆にわからしてやろうと思って、発光ダイオードをつくったんだよ。

そしたら、世の中でできていた発光ダイオードよりも、
100倍くらい、良く光が出てきた。

だから、それは相当、世の中にショックを与えたはずなんだよ。

―西澤さんが、明るい発光ダイオードをつくったときも、
 「理屈がつかないことに理屈をつけていった」結果なのですか?

いや、むしろ理屈を考えてやってみたら、うまくいったんだ。

つまり、少ししか光が出てこない。
どうしてこんなに少ないのだろう?と思っていたわけよ。

それで、いろいろ考えてみたら、
結晶の原子がきれいに並んでいるはずなのに、
多分、ヒ素の部分だけ抜けているんじゃないか。

ヒ素は、非常に蒸発しやすいのです。
つくっているうちに温度が上がるから、
ヒ素が飛んでいっちゃうわけだね。

つまり、ヒ素がいるべきところに、ヒ素がいない。
そういう結晶になっているだろう、と思ったのよ。

じゃあ、ヒ素のところをはじめから穴埋めしたら、
いいだろうと思って、入れ物全体に、
ヒ素の蒸気をかけておいて、つくったわけ。

ヒ素の蒸気の中でつくるから、
ヒ素の穴があかないでしょう?

それで、いいものができたわけだ。


八木先生の三男坊と3時間だけ同級生

―そもそも西澤さんは、八木先生に直接お会いしたことはあるのですか?

そりゃ、あるよ。

ただ席は、こちらが大学に入学して1年の時に、
八木先生は大阪に移られたので。入れ違いだね。

だけど、八木先生の話は、残っていた先生方が、
いろいろと聞かせてくれたよ。

だから、直接会わなくても、
いろいろなことを教えてもらったわけだね。

あれは、小学校のクラスへ4月に入学して、
6月くらいだったかな。小学校の先生が、
「少し遅れたけど、偉~い先生の息子さんが、
明日から入ってくるよ」って言われたんだよ。
それが八木先生の三男坊だったんだ。

来たのだけど、偉い先生の息子だから、
大事に育てられたらしいんだな。

田舎の汚い小学校の中に一人置いておかれたもんだから、
心細くなったらしくて、そのうちに泣き出したんだ。

先生が、いろいろなことを言って、
泣きやめさせようと思っても、泣き止まないから、
家に電話をかけたら、女中さんが引き取りに来た。

だからその間、3時間くらい同級生だったんだよ。

―その後は来なかったんですか?

うん。そのあと、大阪に行っちゃった。
だから、3時間だけ。あははは(笑)

その初めて来た時に、
「うちの坊やも、このクラスに来ますから」って、
わざわざお母さんが挨拶に来てくれたね。

そして不思議なもんで、ずっと後になってから、
八木先生から、「学士院賞に推薦してやる」って
人を介して言われたんだ。

それで、書類をつくって持ってこい、と言われて。
持って行ったら、八木先生は既に癌で入院されていた。

それで病院にご挨拶に行ったわけだよ。
そのときに、奥さんが来ておられた。

その奥さんに会ったときに、
「あ、あの人だ」と思ったわけだよ(笑)


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