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2016年 08月 26日 (金)

根井寿規・東北経済産業局長に聞く:経済産業省って、そもそも何? 取材・写真・文/大草芳江

2009年04月02日公開

相手を知らない限り、まず理解は進まない

根井 寿規 Hisanori NEI(東北経済産業局長)

昭和33年生まれ。昭和56年(1981年)東京大学理学部地学科卒業後に通産省(現経産省)に入省。大臣官房、資源エネルギー庁、環境立地局などで主に石油政策、産業技術政策、地域振興政策などに従事。地域振興政策については、農村地域工業等導入促進法の改正(昭和63年)、地域コンソーシアム制度の創設(平成8年)を主導。平成9年(1997年)から米国テキサス州ヒューストンに勤務(JETROヒューストン・センター次長)し、米国の中東・石油政策や産学連携・インキュベーション等の新規産業育成政策の調査等に従事。この間に、仙台-ダラス産業交流、米国の産学連携機関(TLO)の経験の日本への移転などに尽力。こうした功績により、米国テキサス州ジョージ・ブッシュ知事(前大統領)から感謝状を授与。2001年1月から経済産業省中東アフリカ室長、2002年7月から資エ庁石油精製備蓄課長として同時多発テロ後の経済産業省の中東・石油政策を遂行。イラク戦争直後の2003年5月から日本政府を代表し、イラク暫定施政当局に3名の外交官チーム(故 奥大使、井上一等書記官とともに)の一員として派遣。 6000kmを車で走行し、ライフライン、産業施設の現状調査を行い、復興計画を策定。イラクの治安悪化により2003年8月に帰国。その後、貿易経済協力局技術協力課長として、特に、東南アジア地域との経済連携強化のための人材育成・知的財産・基準認証等の制度構築支援に従事。2005年9月から原子力安全・保安院原子力発電検査課長として、2006年末からの発電設備の総点検による過去の不正の洗い出しを指揮し、2007年7月の中越沖地震発生時のスポークスマン役などを担うとともに、長年の懸念であった定期検査間隔の柔軟化など国際水準の検査制度を実現。2008年7月から東北経済産業局長、現在に至る。

わたしたちは日本という国に住んでいるが、
普段の生活において国を実感する機会はそう多くはない。

国の行政機関のひとつに経済産業省があるが、そもそも経済産業省とは何かを、
教科書的な知識にとどまらず、実感を伴って理解していくには、どうすればよいだろうか。

そこで、東北経済産業局長の根井寿規さんという「人」を通して、
経済産業省とはそもそも何かを探るインタビューシリーズの第一弾。 (取材日:09年3月10日)


東北経済産業局長の根井寿規さんに聞く

―本日の大きなテーマは、経済産業省ってそもそも何なのか、です。
 ただし教科書的な知識を伺うのではなく、根井さんという「人」に焦点を当てることで、
 それを探ることができればと考えています。

私が08年07月11日に東北経済産業局長へ就任して、ちょうど8ヶ月が経ちました。

その8ヶ月を振り返ってみて、振り返るほど長くはないですが(笑)、
どのような気持ちで、どのような意図で、
東北経済産業局長という立場で仕事をしているかを中心に、お話しようと思います。


地域を知る

まず第一に、地域のことを知ること。

基本的には、どこでどんな仕事をするときでも、仕事でも趣味でも、
何でもそうなのでしょうけど、何かをやりたいと思う対象を、まずは知ることですよね。

東北経済産業局、あるいは東北経済産業局長は、東北地域において、
経済産業政策のある意味、執行責任者としての職務を託されるわけです。

では、そもそも経済産業省という組織の役割は何かと言うと、
日本の経済・産業の活力を高めていく、そのために国の行政機関としてやれることをやる、
というのが、我々のもともとの役割です。

私は1981年(昭和56年)に当時の通産省に入って、もう28年目ですかね。
ですから経済産業省という組織が、どのような政策の手段を持っているかを、
それなりに知っているわけです。

これまでは、経産省という組織の中で、それぞれ託された業務範囲があってね。
それを全国でどうするかというものを見ていた、という立場でした。

我々がもっている政策の手段というのは、何かの対象があって、
それに対して作用させてはじめて、何らかの効果を生み出すわけです。

それを東北という地域に焦点を当てたときに、どのような活動ができるのか。

ですから基本的には、東北地域の経済あるいは産業の実態をよく理解をして、
それに対して、我々が思っている政策の手段が、どのような作用ができるのか。

自分たちの政策の対象となる東北地域を、まずは知ることです。


日本の原子力発電所の安全を保つ

ここに来る前は、「原子力発電検査課長」という仕事をしていました。

日本全国で、運転中の原子力発電所は、全部で17地点あります。
下北半島の一番奥にある大間に新しい発電所が建設中ですけど、それを入れると18地点。

東北の中で言えば、宮城県南三陸沿岸の女川町、
福島県浜通りにある福島第一と福島第二、青森県下北半島の東通村。

動いている原子力発電所は、プラント(いわゆる発電機、原子炉)ベースで言うと、
全国で55基あるんですね。

私が前のところでやっていた仕事は、原子力発電の安全規制でした。

安定的な電力供給を確保するためには、原子力が不可欠ですので、
日本では国策として、原子力発電を進めます。

原子力発電を国内で進めていこうとすると、原子力発電所の安全を
しっかりと保つために、安全規制をやらなきゃいけない。

原子力発電所の安全規制は、「審査」と「検査」、大きくふたつに分けることができます。

大雑把に言えば、原子力発電所をつくる前にやる仕事を「審査」と言い、
実際につくった後の仕事は「検査」と言います。

原子力発電所をつくる時には、まず設計をしますよね。
きちんと安全に設計・設置されているか、事前に安全「審査」をやります。

原子力発電所を実際につくったあとは、試運転、営業運転、
その後も、運営の管理を電力会社がしっかりやっているかを、
国が「検査」という行為で全部見ていきます。

そこで私がやった仕事は、「検査」の全体の責任者でした。

日本全国で動いている55基17発電所が、ちゃんと管理されているかどうかを、
ある程度の頻度で全部関わりをしていた、行政の責任課長でした。

そのときに、いろいろなルールを決めるわけですね。
制度を決める、あるいは検査の仕方や頻度を決める。

当然、技術の進歩というものがあります。
最初の原子力発電所が運転開始されて、約40年が経ちます。
そうすると、40年間でいろいろな経験があるわけですね。

つくられた最初の頃は、まだ経験がないから、
例えば検査をするとなっても、ものすごく過剰に丁寧にやるわけです。

けれども他にいろいろなプラントが出てきて、運転の経験もできると、
「そこまでやる必要はない」、「どの辺りまでやっていれば絶対に大丈夫」、
というものがわかってくるでしょう、どんな分野でも。

逆に例えば、最初にやっていないことをやるときは、
過剰に丁寧にみんなワーッとやっている余力がある。

けれどもだんだん数が増えてくると、最初と同じものを同じようにやらなければならない、
となると、労力の無駄みたいなものも起きるわけです。

そこで、だんだん数が増えていって、ちゃんとやれるようになったら、
ここまでやっていれば絶対に大丈夫という範囲が、科学的にわかってくるので、

そういう検査の仕方を、知識が増えてくれば、それを踏まえて制御していけるわけです。
ですから、ルールの見直しや、検査の方法・手段の見直しもやっていました。

そのときは別に、東北のことだけをやっているわけではなくて、
全国の発電所55基、全体の安全のために、
どんなことをどんな風にやれば良いのかを決めてやるのが、自分の仕事でした。

それが、ここに来る前までの仕事です。


発展途上国へ技術協力する

その前の仕事は、技術協力課長。
発展途上国の経済発展のための、日本の経済協力の1分野である技術協力です。

経済協力も、大きく分けると2つあります。

ひとつは、資金協力。お金をあげます、使ってください。
もうひとつは、人材育成。人の育成協力をしましょう。

人材育成には「お金を流して勝手に教育すれば良い」というのもあるけど、
発展途上国の場合、「技術」協力には、もともといろいろな意味の「技術」があります。

いわゆるサイエンス&テクノロジーといった理工系の技術だけでなく、
経済計画をつくれるかとか、そういうものも含めて技術ですよね。

例えば、近代国家をつくっていくときは、
自分の国の地図をつくるところからはじめたりするでしょう。
地図を作るのも、技術ですね。

それとあとは、どれだけの資源が、自分の国にあるのか。
いわゆる地下資源だけでなく森林資源も含めて、どれくらい自分たちに力があるかとかね。

そういうところまで含めて、その国がちゃんと発展していくために必要な能力を持った
人たちをつくりあげていかないと、その国は、自分だけでは動けないわけですよね。

そういう幅広い意味での人材育成の協力をするときに、
日本の技術をもっている人たちを派遣をして、あるいは相手国の人を日本に呼んでとかね、
いろいろな意味での人材育成協力をするのを、通常技術協力と言っています。

そういう仕事と、あとは資金協力と、大きくふたつに分けて、
特に私がやっていたのは、経済産業省の守備範囲でできる、
発展途上国の人材育成協力の責任課長をやっていました。

日本の場合、ほとんどアジアを中心に展開をしていて、
アジア、アセアン、一部アフリカを最近やらなきゃね、ということをやっていました。

そのときは、どちらかというと、日本の国内の仕事より、
日本の力を使って、発展途上国をどのように支援しますか。

途上国の発展、特に日本の場合には、
世界の中でのアジアの発展が、日本のためでもある。

そのような意識でやっているときは、
必ずしも、東北や北海道というものは、視点としてないわけです。


地域に住まってはじめてわかることを大切にする

そういうことで話をもどすと、経済産業省の本省で仕事をしているときは、
全国の原子力発電所だったり、途上国の支援をどのようにするかだったり、
作用する対象は、必ずしも地域という主体ではありませんでした。

それが今まで自分がやってきた仕事の流れなのだけども、
じゃあ、東北の経済産業局長として仕事をするということになれば、

仕事の作用をする客体としての東北地域、自分たちの政策の対象となるものを、
まず実態がどうなっているのかということを、当然皆から話を聞くのだけど、
自分自身も意識して、耳にしていくということなのです。

そういう意識で、まず東北地域を知ること。
そのときにやはり、8ヶ月経って、今でもずっと思いが同じことがあります。

いろいろ東北各地に行ってみて、企業訪問をしてみたり、あるいは大学の先生方や
自治体の方、商工会議所の方々や金融機関の方、いろいろな方とお話をしていて、
全国どこで聞いても、だいたい同じような話だよな、というものがあります。

それはだから同じだな、という確認さえできれば、この仕事の仕方から言えば、
経済産業省の本省の方でいろいろ考えてくれたものを、地域で展開していく、
という仕事で地元の活性化というのは、その部分はできるようなことなのだけど。

その一方で、どうですかね。いろいろと話をしていると、
これはちょっと、東京にいたときには意識しなかったな、というものがあるのです。

いろいろなことがあるのだけど、例えばね、ここから先は現実的な仕事の話になるけど、
今からこの話の前提の話をするね。

例えば、去年7月に私が来た頃は、原油・原材料価格がかなり上がっていました。
ガソリン軽油の価格が上がり、原材の価格も上がって、かなりの負担がある、と。

農林・水産やトラック輸送関係の方は、軽油の価格が上がれば、支払いが増えるから
コストが上がるのだけど、運送料の値上げが難しいから大変だ、とかね。

あとは来てすぐくらいですかね、石巻の市議会の方が来られてね、
石巻の漁業者が大変だから燃料費を何とかしてくれ、というお話があったりしました。

とは言ってもね、原油・原材料価格があそこまで上がるのは、
一時的なものと思っていました。相場は、だんだん収まっていく世界だ、と。

大変な方々へ支援はしなきゃと、金融対策とかいろいろ準備をしてもらったけれども、
それは通常の景気のサイクルの中で、良い時もあれば悪い時もあるよな、という話でした。

しかしながら昨年9月、日本時間の16日に、リーマン・ブラザーズが破綻。
そこから約1ヶ月のタイムラグがあって、自分の実感としては10月20日以降でしょうか。
急速にものづくり製造業の工場の方々から、例えば「もう受注がない」とか
「生産体制の見直しをしなければいけない」という話が出始めたのが、その頃からです。

そこから、日本の昨年の第3四半期(2008年10月~12月)のGDP(国内総生産)が、
年率換算で-12.7とかね、というのは、ある意味では異常時です。

さっき言った燃料価格が上がったことは、上がったことそのものは異常なことだけど、
経済全体に与える影響度から言えばね、通常の景気サイクルの範囲内だったかもしれない。

ところが、リーマン・ショック以降の話は、明らかに通常モードではないわけですね。
そういう通常モードではない状態を、聞いている話とね、そうでない話ってあるのだけど。

最初に言うとね、金融対策では関係はあるのだけど、金融対策のヒアリングで、
各地を去年の11月から、ずっとまわりはじめているわけです。

さっき言ったとおり、私には東北の経験がありません。
本省から出張ベースでは来ていたけど、ここは住んだことがないから、
じっくり地元の方々とお話をする機会はそうあったわけじゃない。

ここに来て、地元の方々とお話をしたときにね、
最初に11月くらいかな、いくつかのところから聞いて、最初に驚いたのが、
「越冬資金というのがあるんです」と言われたんですよ。

要するに公共事業で、北海道も多分同じだと思うけど、東北の場合には、
大雑把に言えば、多分11月下旬から2月くらいまでなのでしょうね、
その間は工事ができないんです、雪で。

高速道路の工事とかさ、例えば大規模なビルをつくるような工事ってさ、
大雪の頃にやっているのを、見ていたことがないでしょう。
しかも雪って、いつ降るかわからないじゃない。

だからそういう工事って、少なくとも二週間とか一ヶ月とか期間がかかるわけだけど、
いつ雪が降りそうかわからないから、雪が降りそうな期間は工事を避けて、
年間の計画を作るしかないわけです。

そうするとね、大体の工事の支払い方は、いろいろあるけれども、
工事がない時に、お金を払ってくれる発注元はないわけですよ。

例えば、公共工事の入札で選ばれて、公共事業の受注を受ける、ということが決まる。
けれども入札が冬前の場合、資材発注をはじめるときにはお金がいるのだけど、
2~3年またがって工事をするときに、冬の間は工事が進まないから、
当然お金が入ってこないわけです。けれども冬があければ、お金が入ってくるのがわかる。

そういうときには、普通の運転資金とは別に、越冬資金として上乗せしておくのでしょうね。
「越冬資金というのが、東北の場合ありましてね」と聞いた時は「えっ」と思うわけですよ。
言われてみれば当たり前のことでしょう。
けれども、東北や北海道、北陸以外は多分、聞いたことがないですよね。

なるほど、すると逆に言えば、これはどっちかと言うと私より財務局の方だと思うけど、

金融機関の資金繰り、個々の企業の資金繰りというのは、
地域が中心の金融機関の資金事業が考えると、当然、
越冬資金を出す金融機関自身が資金調達をしないといけなくなるわけですね。

すると要するに、そこに"こぶ"ができるわけでしょう。
貸出の金額から言えば、冬前に貸出金が増えていて、
その代わり、その回収は春にできるはずですよね。

そういうような話は、はじめて聞いたなぁ、とかね。

それから今ね、「農商工連携」といって、
農業の活性化にもつながる仕組みをつくって動かしているのだけど、

多分、首都圏や大都市圏で考えるとね、農商工連携が難しいのだろうなと思うのは、
それを受けてくれる農業者を探すのが、きっと大変なのだろうと思うのです。

例えば、話を聞くだけじゃなくて、テレビのニュースを見ていてもさ、
こっちは農産物の「出荷」のニュースが多いんですね。
東京だと、築地市場で入ってきましたという「入荷」のニュースはあるのですけど。

だから東北ってね、農業者を探すこと自体は多分、難しくないんだよね。
いっぱいいらっしゃるわけです。

その中でただ、農商工連携の今後おもしろいことをやろうという人を
探すところに少し苦労があるのかもしれないですね。

逆に言うと、農業分野全体で見れば、すごく力があるところ。
それでもし満足されておられるのであれば、動かないですね、逆に。

つまり、いろいろなことに興味を持って見て、
やっぱりこの地域に来て住まってはじめてわかることがあるわけで、
それは大事にしたいと思うんですね。

それは言ってみれば、地域にずっといらっしゃる方から見ると当たり前のことですが、
全国ベースで、あるいはこちらに縁がなかったゆえに、良く知らなかったこと。

逆に、さっきの越冬資金みたいにね、地域特性で、
それ自身がハンディーキャップかどうかは置いておいて、あえて言葉を選ばずに言えばね、
冬に作業ができないことは、経済活動から言えば、
ある種のハンディーキャップであるわけでしょう。

ハンディーキャップであるということを前提に成り立っている、
地域社会としての仕組みがあるわけですね。

それを前提に、我々の仕事を組立てないといけないんじゃないか。

うちの局で仕事をしていている皆は、よく分かっていることだと思うのだけど、
もともと東京から来た立場からすると、そこに対する意識をしっかりもった上で
皆と仕事をしていかないと、多分、議論がかみ合わないんだと思う。

それからあとは、この地域の方に力がありそうな農業とかね、
そういうものを、どういう風に大事にしていくかなぁ、とかいうことを考える
最初のきっかけが、地元のことを良く知る、ということなのだと思いますね。


アメリカ経済復活の原動力を調査する

ここから先はね、「知る」ということを前提として、自分が持ち帰った部分。

アメリカにはね、1997年6月から2000年12月までいたのですけど、
ワシントンとかニューヨークとかカルフォルニアではなくて、
アメリカの田舎でした。テキサス州ヒューストンというところです。

テキサス州はね、
面積は日本の総面積の1.8倍、人口は2000万人というところなの。

その頃はね、背景から言うと、今は俗に「ITバブル」と呼ばれているのかな。
IT技術、インターネットが急速に発展した時期でした。

アメリカのITバブルの崩壊が、たしか2001年だったと思うのですけど、
むこうにいる時には、「ニューエコノミー」とよく言われていましたね。

IT技術が急速に発展したことによって、景気循環を考えたときにね、
いわゆる「在庫循環サイクル」がなくなったんじゃないか、という評価がされていました。

在庫循環とは、要するに、在庫が増えすぎると、在庫を減らさないといけないから、
在庫を減らすためには、生産を下げないといけない。

そういう在庫循環というのが、経済の景気の変動、景気サイクルで
一番短いサイクルだと言われています。

当時、アメリカの経済が、ずっと一本調子で成長していて、
それがかなり長く続いていたんだよね。

それは在庫循環プロセスがなくなったからではないか、そんな主張がなされたりして、
そのことを当時は、「ニューエコノミー」という言い方をしていたんです。

それが結果として、ITバブルという格好で、一回下がるわけだけども、
そのあと金融バブルが上がったのですね。
その金融バブルが崩壊したのが、今回だったわけでしょう。

また、いろいろな話をするのだけど、
自分がアメリカにいた時代、自分に託していた課題はね。

日本のいわゆるバブルの崩壊は、公式見解は91年10月だったかな。
91年10月を景気の山にして、そのあと崩壊した、と言っていると思うのですけど。

バブル経済の当時には『ジャパン アズ ナンバーワン』
(エズラ・ヴォーゲル著)という本が出たのですね。

気づいてみたら、日本が一番、いわゆる競争力があるのではないかと、
アメリカやヨーロッパが、急にばっと気づいたみたいなことがあって、
自動車にしろ、家電にしろ、ほとんどが日本製じゃないか、という話が始まってね。

そういう風に、日本が浮かれ上がっているときに、
我々側は、どうもこれはおかしいな、と思っていました。

自分の印象で言うと1980年代、アメリカは81年1月からレーガン政権。

要するに、アメリカ経済が、かなり低迷をしている時期が70年代にあって、
レーガン大統領は、アメリカの復権を掲げて当選をしました。

そういうときに、アメリカの有識者の方々が、『ヤングレポート』という
アメリカ経済の復活の処方箋を書いたんですね。
ヤングさんというのは、「産業競争力委員会」委員長の名前です。

その中でやったことのひとつに、戦後の日本が成長してきた日本のしくみを研究して、
アメリカに取り入れるものは取り入れる、というものをやったのですよ。
中小企業支援の仕組みとかね、そういうものを含めてやったのです。

それからふたつめが、新しい企業・ベンチャーの育成をやった、と。
それが産学連携であったり、ベンチャーキャピタル投資活動、
シリコンバレーモデルを全米に広げる、ってやつです。

それが80年代。
経済政策ではサプライサイド・エコノミーに、ということをずっとやっていました。

バブル崩壊直後に、私たちが、通産省で政策論を議論していたときにはね、
もう93年位には、アメリカに完全に逆転されたという意識があったのですね。

ところが日本の中では皆、そうは思っていなくてね、
それはまぁ、今から言ってもしょうがないのだけど。

それでね、80年代後半に顕著だったのが、「アメリカの車には怖くて乗れない」。
それで日本車がどんどんアメリカへ輸出されていって、日米貿易摩擦が起きていてね。

その結果、アメリカから「日本の公用車に、ちゃんとアメリカの車を買え」と言われて、
買ったはいいけど、よく壊れたんです。

今とは、全然違うのですよ。80年代後半あたりに、アメリカの車を買うと壊れたわけ。
つくり方が悪いから、すぐエンストする、ということが起きていたんです。

象徴的なのは、スペースシャトル「チャレンジャー号」の爆発事故ですね。

1969年に、人類をはじめて月に運べるだけの技術力を持っていたアメリカが、
1986年には、宇宙飛行士全員を死亡させるような事故を起こすところまで落ちた。

「チャレンジャー号」の爆発事故は、
アメリカの製造業の品質確保能力低下の、象徴のように言われました。

それと同じように、アメリカの車は壊れると。

冗談のような話ですが、当時は、アメリカの女性は小型車を買うのですが、
自国の車を買うよりは、日本車の方が良いと。

要するに、アメリカ車の場合、高速道路の途中でエンストして止まってしまう。
女性一人で乗っていた場合、怖くてしょうがないわけです。

だから米国の女性は、自分の安全のためには、日本車を買う時代がありました。

ところがその後、アメリカは80年代に徹底したシステムの改善や努力をして、
93年位には、どうもむこうの方が強くなってきているのではないかというのがあってね。

それが、これは本当にむこうに抜かれたな、と思ったのが、95~96年頃ですよ。

それで産学連携やベンチャーキャピタル、ビジネスインキュベーションなどを
やらないといかんなという議論を、中でしていたのです。

それで97年、アメリカに行ったわけですね。

アメリカが80年代に成功したとき、彼らが日本の戦後の成功体験から真似をした
仕組みとは、中小企業支援の仕組みでした。

日本が、中小企業者の経営相談とかね、そういうしくみをつくっていたんですね。
それをアメリカが真似したのが、SBDC(Small Business Development Center)。

あるいは、今はいわゆる公設研とか、各自治体が研究所をもっているでしょう。
昔は工業試験場とかがあって、地元の中小企業の方々の技術相談をやっていたのですね。

それの元締めが実は、通産省の国の研究機関、今の産総研が、各地方にも拠点を設けて、
いわゆる各自治体の工業試験場の人たちでは相談に対応できない技術課題を
国の研究者が相談を受けましょう、そういう仕組みをつくっていたの。
それをアメリカが勉強してつくったのが、RTC(Regional Technology Center)。

そういうアメリカにあるものを見たのだけど、僕らからすればさ、
もともと彼らが日本の仕組みを真似したものだから、珍しくも何ともないわけですよ。

けれどもそれより、それこそ今では日本でもかなり定着してきた、
産学連携組織であるTLO(Technology Licensing Office:技術移転機関)とか、
ビジネスインキュベーションセンター、ベンチャーキャピタル、
エンジェル(個人投資家)ネットワークとかね。


そういうものをアメリカが、
新しいベンチャー企業を育成するための仕組みとしてつくったのです。

それが、どんな機能をもって、動いているのか。
そのノウハウをしっかりと日本も獲得して、次のステップへ行かないと、
アメリカに太刀打ちできないな、という思いがありました。

そこで自分がアメリカに行った時、意識していたことは、
アメリカの仕組みをずっと勉強して、日本で活かせるものは活かすということが、
まず自分が、むこうに行く機会があればやりたいと思ったことでした。


アメリカの石油政策の構造をおさえる

ふたつ目は、これまで石油関係の仕事をやっていたこともあって、
今は新興国の影響などで、ちょっとずれているのだけど、
世界の石油需給を安定化させる基本的なメカニズムをアメリカが握っているんですね。
アメリカの国策なんです。

例えば、歴史的な流れで言うとね、
原油価格は、大昔、いわゆるメジャーと呼ばれる欧米の石油会社が決めていました。

その後、「資源ナショナリズム」という、
自国に存在する資源を自国で管理・開発しようという動きがあって、
産油国が価格を決めるようになったのが、60年代後半から70年代。

そういう動きのピークが、昭和48年(1973年)の第一次石油危機であり、
昭和54年から55年にかけてイラン革命(1978年)から発生した第二次石油危機。

第一次石油危機が、もともとなぜ起きたかというと、
第四次中東戦争という、シリア、エジプト、イスラエルとの争いの中で、
エジプトとシリアが、イスラエルに攻め入りました。

アメリカもイスラエルの同盟国だからね、
イスラエルに対して、アメリカが武器を供与する・しないの話をしていて、
アメリカがそれを協議をすると決めたのを受けて、アラブ諸国が反発をして、
対イスラエル友好国に対しては、原油の輸出を止めるっていうのが、
第一次石油危機なのですよね。

最終的に中東戦争は、イスラエルが原発を持っているかもしれないよ、
とチラ見せすることで、終わっちゃったというか。

ただそうは言っても、この2回の石油危機でこりて、
アラブ産油国の意向で、石油価格が決まるような状態を維持していると、
自国の経済だけではなくて、政治、外交の自由度に影響を与えるという点で、
どうやって石油市場の安定化を図るのか。それで用意したのが、ふたつあるんですね。

ひとつ目は、国際エネルギー機関(IEA:International Energy Agency)。
これは西側先進国を中心に組んでいるOECD(経済協力開発機構)内に設立された組織で、
石油代替エネルギー開発とか、省エネルギーを一致して取り組む、
中東産油国の行動に影響されにくい社会をつくる、という取組みを皆でやること。

それからふたつ目は、IEAの役割もあるのだけど、
いわゆる需給統計の透明化の確保と、それを前提に石油価格が、
いわゆる市場原理で決まるような、先物市場の創設をやったのですね。

その結果、ニューヨーク商品取引所のWTI(West Texas Intermediate)先物価格と、
イギリスIPE(International Petroleum Exchange)のブレント先物、
それと中東ドバイ原油のスポット価格で組んだのです。

マーケットの需給で価格が決まる仕組みをつくった結果、
俗に言う「ネットバック価格」といって、石油消費国で、
石油製品価格が市場で決まりますよね。

基本的には、製油所で石油を分解するときに、
重質油や軽質油といった原油の種類の違いがわかっていれば、
原油は製油所の設備の分解能力と組み合わせれば、
ガソリンや灯油や軽油などの製品がどれだけのできるのかがわかるので、
出てきた製品の価格を全部積み上げれば、その原油の総価値ができるでしょう。
その総価値に割り戻して、原油価格はいくらかを決めるのが、「ネットバック価格」ね。

それで産油国間の市場シェア争いがあって、
逆に言うと、ネットバックで価格を決めるようになればね、産油国の中で、
より割安な原油を売ってくれるところから、要するに皆、買うようになるわけです。

そういった動きとあいまって結局、1983年、第二次石油危機から3年経ったときに、
GSP(government selling price:政府販売価格)を初めて値下げせざるを得なかった。

そこからはじまって、だんだんマーケットベースになってきました。

それと、第二次世界大戦後の工業開発が日本を中心に進んだものだから、
産油国は需要の増加を期待したわけですね。

ところが、少なくとも先進国の省エネ技術が進んだものだから、
彼らが期待していた程、市場は大きくなりませんでした。

その結果、市場が大きくなっていくことを前提に油田の開発をしていたものだから、
生産量はあるのだけど、全部生産すると売れない。

するとだんだん値下げするしかなくなって、
産油国間の価格競争、要するに、安売り合戦みたいになった。

それで結局、マーケットベースで価格が決まるように動いちゃった。

その結果として、産油国の価格決定権がなくなって、
今でも基本的にはマーケットが決めています。

さっき言ったアメリカの仕組みというのは、
アメリカという国が、今はどうかな、10年前僕がいるころは、
国内需要の4割強は国内なんですよ。それで6割くらいは、輸入。

輸入している原油はね、カナダとメキシコとサウジとベネゼイラで、ほぼ4等分なんです。
どこか一カ国に、過剰に依存することはないようにしているのです。

逆に言うと、アメリカとカナダは日米関係以上に、実質的に強固な同盟国。
サウジというのは、今では、中東産油国の中ではアメリカを最大の同盟国にしている。

ベネズエラとの関係は、98年11月にチャベスがベネズエラ大統領に当選して
大きく変わってしまうのだけど、それまではベネズエラは石油に関して言うと、
アメリカにとって特に中南米で、最大の親友みたいな感じですかね。

あとは、メキシコはもともと、完全にアメリカ経済依存型の国だから。

そのメキシコとカナダと、中東でサウジ、中南米でベネズエラとの
関係性さえ、ちゃんとマネージしていれば、
アメリカへの原油供給に不安はないというのが、当時のアメリカの感じでした。

あとはちょっとついでに言うとね、
そういう事情が自分の頭に入っちゃっているものだから。

よく日本の方が、アメリカのイラク侵攻は石油利権のためだとかって、言うでしょう。
とっても信じられない。

だってイラクの石油なんて、アメリカの国内需給にほとんど影響ないんだよね。

それで話を戻すと、そういう石油関係の基本的な理解はもともとあったので、
自分がよく知っている国内の大先輩からのアドバイスもあって、
アメリカの石油政策=エネルギー政策の基本構造をよく勉強しておいてくれと。
あとは中東政策も。

自分がアメリカに行った当時、意識していたことは、そのふたつかな。

まつめると、ひとつ目は、
80年代、アメリカが経済を復活させた原動力としての
ベンチャー育成、産学連携、インキュベーションの仕組みをしっかりと勉強してくること。

ふたつ目は、
エネルギー政策の根幹であるアメリカの石油政策の構造をしっかりとおさえること。


好きにならない限りは、まず理解は進まない

それで、もういっこ、話を大きく戻すとね。

海外の関係者との関係をつくることは、アメリカからつくりはじめたのだけど、
そのあと実は、中東アフリカとかイラクとか、いろいろあるのだけど。

そういう自分が知らないところへ行くとき、最初に意識していることって、
自分が一緒に仕事にしようとする相手の国や地域のことを、
まずは好きになることなんですよね。

好きにならない限りはね、まず理解は進まない。

テキサスの時もそうだったし、中東諸国の時も、イラクへ行った時も含めて、
国内はもちろんだけど海外でも、いわゆるケアアプローチか、以心伝心、っちゅうかね。

相手が自分たちのことをね、尊重してくれるかとか、好きでいるかということはね、
人間というのはどうも敏感に感じるっていうのがあってさ。

例えば、テキサスに行って最後、帰るときにね、

食事や食べ物は、例えば、地元のものが一番美味しい。
特に生活するのであればね、その気候風土にあったものが、
長年かかって、その地域で選ばれて生き残ってきたわけですよね。

例えばテキサスだと「テックス・メックス」と総称されている料理があるんです。
メキシカン料理をベースとするものに、テキサスのアメリカン料理を組み合わせたもの。

タコスとか、メキシカンサラダとステーキとか。
「ガンボスープ」とかね。よく知られているのだけど。美味しい。

日本へ帰るとき、送別会をいろいろとやってもらったけど、アメリカ人の知り合いに、
「What do you miss the most when you're leaving Texas?
(テキサスを離れたときに一番懐かしく思うものは?)」と聞かれてね、
「Tex-Mex」と答えたわけ。そしたらすごく喜ぶんだよね。

そうするのは、本当にそう思っていて。
テキサスにいる間は、テックス・メックスやメキシカンばっかり食べていたの。
好きだった、というのがあるのだけどね。

例えば、中東アラブ諸国に行った時は、
俗に言う「レバシリ料理」(レバノン、シリアの料理)というアラブ料理があるのですよ。

これが結構美味しくてね、健康的で野菜も多くて。
だいたい肉は、羊か鶏なのですよね。
もともとイスラム教徒は、豚肉を食べちゃいけないでしょう。

だけどね、例えば日本から来た人はね、
羊肉は日本はあまり美味しくないから、つい牛肉を頼みたがるわけですよ。

地域でずっと食べてきたものってね、
どこ産の何が美味しいという話が、ちゃんとあるんですよね。

だからそういうものを食べたほうが良いとかね。

テキサスを離れるときにそういう話をしたら、
その次の送別会にも、同じ彼が来てくれてね、
「テックス・メックスを忘れないように」って、
テックス・メックスのレシピ集を持ってきてくれたの。

それはちゃんと持って帰ってきましたよ。
うちの家内も好きだったので、今でもつくってくれます。

そういう地元の食事とか食べ物が好きだと、相手も気に入ってくれます。

我々だってそうでしょう。
外国の方が「寿司大好きだ」って言ってくれたら、嬉しいでしょう。

ああいう感じと言うのは、多分、一般的なんでしょう。
まずは、自分が住まうところ・活動するところを好きになること。

例えばね、「インシャー・アッラー」って言葉、聞かれたことあります?
アラブ人がよく言う言葉です、

だいたい日本の方はね、アラブ人のいい加減さを表す代名詞として使うのですね。
日本語訳は、「神の思し召すままに」。

彼らどういうときに言うかというとね、
ビジネスの話をして「じゃあ次、いついつまでに、何々しよう」と約束するよね。

そして「じゃあ次、~曜日に会おうね」と言ったときの答えが、
「インシャー・アッラー」だったりするんです。

彼らの本質的な意味はね、自分の経験からすると、ふたつあるのだろうと思います。

真面目な意味では、その日その時間で約束はするけれども、
例えば「急用ができて」とか「自動車の渋滞があったら少し遅れるかもしれないし」とか、
自分のあれではなくて、来れなくなる可能性があることを、あらかじめ断る意味をこめて、
「インシャー・アッラー」と言っている世界があります。

もうひとつは、本当はこの人とやってもしょうがないから、約束は断りたい。
アメリカ人だったら「NO」とか言うじゃない。
けれどもそれじゃあ人間関係が悪くなるって思っているのね。
だから「インシャー・アッラー」とか言ってね、婉曲表現。
京都人がなんとかって言って断る、みたいな話、あるじゃない。

自分自身の経験から言うと、
アラブ人に約束を破られたことがないのですよ、一度も。

だいたいこっちから見て、「こんな奴と、二度と付き合ってもしょうがないな」と
思ったときは、むこうもそう思っているから、あまり約束もしないし。

互いにとって、やっぱり意味のある約束でね、
「じゃあ次、いついつどこどこで何時に、こいつも一緒にね」という話をするとね、
相手も「インシャー・アッラー」と言って、こっちも「インシャー・アッラー」と言うと、
よっぽどのことがない限り、ちゃんと来ているわけ。

ただ1回だけかな、1時間くらい待っていたことがあって。
彼自身にあとで説明を聞いてみると、そっちを主にしなければならないことがあって。

日本人的な感覚で言うと、遅れそうなときは、
先方に電話して「遅れます」って連絡する世界じゃない。

でもむこうの文化からすると、「それくらいなら待ってくれる」という感じ。

それをギャップと思うか、だね。
それはまあ、そういうこともあるよな。

例えば変な話だけどさ、僕らがこういう仕事をしていて、仙台にいるときに、
どこかに何かの約束で行ってさ、一時間待たされると、
この組織として、無駄な一時間を局長が過ごすというのは、仙台では有り得ないわけ。

そんな時間があるんだったら、他にもいろいろとやってもらわないといけないことが
たくさんあるわけ、となるのだけど。

でも例えば、出張でどこか行きました、出張先で一時間ぐらい待たされるとかさ、
その場で急な時間変更があってもね、そこに泊まる予定になっていれば関係ないんですよ。

さっきの例はね、こっちがサウジアラビアに行っているときに、
むこうが1時間遅れてきました。

こっちはさ、サウジアラビアで他にそんなにたくさん予定ないわけですよ。
彼と会って話をした後は、3時間後に誰かと会うとかさ。
むこうだって、わかっている。だから1時間くらいね。

逆に言うとね、そいつが日本に来たときに、こっちの都合で、
ホテルには連絡したけれども、1時間くらい待たせたことがある。

でも全然、怒らなかった。
お互いに信頼関係さえあれば、そんなに目くじらたてるようなことは起きませんけどね。

ですから、自分の海外の人とお付き合いをした過去の経験で言えば、
国情・風土は違うけど、人間同士の付き合いは本当に変わらないね、ってことですけどね。


「局長」という立場ゆえに、できること

それはそれとして、ただまぁ、ずっとこの地域で課題を拾っていてね。

最近、ずっと気にしながらやっていることのひとつはね、
僕の「局長」という肩書きがあって、初めて与えられる場があるわけです。

大体ほとんどのことはね、ここの局で長く仕事をしている人たちが、
わかってやってくれています。

逆に言うと、こういう厳しい環境の時に、自分がここにいることで、
多少なりとも地域の人とか、結果として、うちのみんなとかに、
役立てることは何かな、と考えています。

「根井さん」という個人で、できることというのは、
自分自身が、これまで経験してきた知識であったり、
経済産業省で28年仕事をする中で培ってきた人間関係であったり。

それは個人が今までやってきたことでしょう。
それでやれることは、やればいいのだけど。

もうひとつは、「根井さん」という個人じゃなくて、
経済産業局の「局長」という立場ゆえに、できることがあるわけですね。

ここの「局長」というポストがひとつ成り立っているのは、
うちに190人弱の働いている人たちがいるから、
そこの長として「局長」というポジションがあるわけです。

自分ひとりで「局長」と名乗ったって、しょうがないわけです。
逆に言うとね、それを託されているわけでね。

それぞれの職員達からすれば、やっぱり自分たちの仕事を進めるために、
局長という職についている人には、これくらいのことはやってほしいとかね、
それは当然あって然るべきだし、あるわけですよ。

それを付託されたときに、それなりにちゃんと時間を割いて話をして、
みんなが次々に動けるような環境をつくれるかどうか。

それが僕のひとつの仕事ですよね。

局長というポストがあることで、できること。
あるいは、その肩書きがないと、できないこと。

例えば、局長が、各県の知事さんたちと話をします。
うちの部長さんたちが知事にアポイントを取ったって、会ってくれないからね。

だから必要あれば、アポイントをとって、
県としてこんなことをやってくれないでしょうか、とお願いに行くとかね。

それはやっぱり、個人の問題ではなくて、組織の問題。
経済産業局の局長というポストで、はじめてできることはある。

あるいは、最近やっている産学官連携の話はね、
各県の知事さん、副知事さん、あとは各国立大学の学長さん。

最後は担当レベルで、それぞれ案件になっている先生方と話したり、
もともとお付き合いのある先生方もいるわけですけれども、

そこから更なる展開をしていこうというときには、
それぞれが上へあげていくプロセスはあるけれども、
上からポンと押さえといておけば、動きやすくなることがあるわけですね。

そんな感じかな。

あとは、他にいろいろやっていることもありますから、
それはまた今度にしますか。

そうですね、1ヵ月半に1度くらいのペースで、やっていきましょう。

=つづく

取材先: 東北経済産業局      (タグ: , ,

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