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2020年 08月 11日 (火)

【レポート】東北大学未来科学技術共同研究センター創立20周年記念講演会/内田龍男さん(東北大学名誉教授)記念講演「未踏の分野に挑戦した歴史と経験」 取材・文/大草芳江

2020年6月4日公開

 東北大学未来科学技術共同研究センター(NICHe)の創立20周年記念式典・記念講演会が2018年10月26日、東北大学百周年記念会館川内萩ホール(仙台市)で開かれた。本稿では、世界中の液晶ディスプレイの発展に多大な貢献と産業界への先端技術普及および育成に尽力してきた内田龍男さん(東北大学名誉教授)による記念講演「未踏の分野に挑戦した歴史と経験」をレポートする。

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※ レポートに掲載されている所属・役職は、2018年の講演会当時のものです。
※ 本取材をもとに、東北大学未来科学技術共同研究センター創立20周年記念誌の編集を請け負いました。

【記念講演2】
「未踏の分野に挑戦した歴史と経験」
内田 龍男
(東北大学名誉教授、株式会社インテリジェント・コスモス研究機構 代表取締役社長)

 本日は大変よい機会を頂きまして感謝申し上げます。「未踏の分野に挑戦した歴史」と少し大げさなタイトルでございますが、私が液晶分野の研究をスタートさせたのは、本当にまだ黎明期の頃でございました。私自身は真空管から半導体に時代が移る頃でしたので、実は「半導体の研究をやりたい」と思って東北大学工学部を選んで入学しました。

 1960年代の日本は、まさに半導体を民生機器に使おうという時代で、その代表がトランジスタを使った電子式卓上計算機でした。これは四則演算の非常に単純なものでしたが、当時は部屋いっぱい使うくらい大きい計算機でした。これを机の上に載せられるものという意味で電子式卓上計算機(電卓)として開発が進められ、1964年に早川電気工業(現シャープ)が完成させました。また、当時のディスプレイについては、テレビが進化をしており、1964年には日本にカラーテレビが登場するなど、テレビ用のCRT(ブラウン管)の開発が進んでおりました。一方、半導体化した電卓のような中小型装置に適した小さなディスプレイはなく、当時はまだ真空管式のニキシー管が使われていました。それから数年後、カシオ計算機がポケットに入るサイズの電卓をつくり、大変な評判を呼ぶわけです。ただ問題は、4個の乾電池が短時間でなくなってしまうことでした。この問題を何とか解決しようということから、ディスプレイに大きな関心が向けられることになりました。

 ちょうどその1年ほど前の1968年、RCA社のG. H. Heilmeierが、液晶ディスプレイを発表しました。薄くて軽く、しかも電力をほとんど食わないことが特長で、世界から大きな注目を集めました。私は「半導体の研究をしたい」と思って半導体の研究室を選んだのですが、大学院に進学した時、教授から渡されたテーマのひとつに液晶がありました。仲間全員が液晶ではなく半導体をやりたいということで、あみだくじを引き、私が外れてしまったという大変不純な動機から、液晶の研究を始めましました。1970年のことです。

 液晶に関して情報も測定器も材料も何もかもない時代でしたので、液晶を選んだ少し後から大変な失敗をしたと思ったのですが、それでも選択したからにはとにかくやらなければということで、まず液晶材料をつくるところから始めました。当時、1年ほど前に初めて室温で液晶になる化合物が発表されたので、折角ならその最先端の液晶を合成することにしました。ところが、この合成には高温高圧を要するフリーデルクラフツ反応を使わなければならず、またもや大変なことに挑戦してしまいました。液晶の合成だけで1年が過ぎ、その高純度化にさらに半年くらいかかりました。そしてようやく材料ができたところからデバイスの研究をスタートしたわけです。

 この頃は世界的にもまだ液晶の肝心な電気光学的な性質がほとんどわからない状況でした。液晶とは液体のようなもので2枚のガラス板の間に挟むのですが、中の分子の配向がほとんどコントロールされていないような段階でした。いろいろ研究しているうちに、基板に対して液晶分子が垂直になったり平行になったりすることがあり、それが液晶の特性に大きく影響を及ぼすことがわかりました。そこでこれに集中してしばらく研究を進めた結果、液晶の配向のメカニズムやその制御の仕方を明らかにすることができました。本日は詳細を省いてお話させて頂きますが、これはその後の液晶ディスプレイの重要な基盤技術の一つとなりました。

 さて、当時のエレクトロニクスについて見ますと、1970年代から液晶と半導体の連携による日本の目覚ましい進歩がありました。最初、数字を表示する液晶ディスプレイが開発されて、1973年にシャープが世界初の液晶電卓を世に出しました。次いで1行分の文字が表示できるようになり、これによって電子タイプライターが開発されました。さらに数行の文字を表示できるようになってワープロが出現し、次々と大きな変革が起こりました。最終目標はノートパソコンでしたが、その実現には20行程度の文字を表示するために200本程度の走査線が必要でした。しかし、これによってコントラストが低下し、表示が非常に薄くなってしまいました。このことが理論的にも明らかにされ、このために多くの人達が液晶の限界を感じ始めて、1970年代の終わり頃には液晶への関心や研究人口が急速に低迷していきました。もはや液晶もこれまでか、という状況になって、私自身も壁の前に立ちすくんでしまいました。しばらく悩んだ末に、最終的に考えたことは、液晶と運命を共にする決意をして、何としても立ち直しを図ることにしました。具体的には、液晶の将来にとって最も重要な課題に挑戦する決意をして、当時白黒だった液晶のカラー化を目指すことにしました。

 液晶のカラー化については、その前からいろいろな提案があり、液晶の複屈折や旋光性を使った方式が主流でしたが、その方式では特定の色しか出すことができませんでした。そこで3原色を混ぜて任意の色を出すことを考えました。混色方式には減法混色方式と加法混色方式がありますが、液晶自体は発光しないため、光を吸収するものとして考えますと、減法混色しかないだろうと考えたのです。そこで、それまで研究していた2色性色素を用い、シアン、マゼンタ、イエローの3色の色素を入れた液晶を3枚重ねることで、任意の色が表示できる方式を考案し、非常に綺麗な色を出すことができました。しかし、将来画像が細かくなり各画素電極が小さくなっていくと、斜めから見た時に3層の色ずれが起こってしまう問題があったのです。完成はしたものの、実用には向かないことに気づき、そこからしばらく悩みました。

 しかし、ある時にふと考えて、細かい色を並べて人間の目の解像度よりも小さくすれば、目が混ぜてくれますから、先ほどとは全く違う、加法混色の原理が成り立つことに気づきました。その場合、液晶自体は白黒で、各画素に3色のカラーフィルターをつけてやれば、電圧でそれぞれの色の明るさをコントロールすることによって任意の色が出せることになります。ただしカラーフィルターを液晶セルの外に付けると、先程のお話しと同様に、斜めから見た時に色ずれが起こりますので、カラーフィルターは液晶の中に入れるのが基本であると考えました。ところが、液晶のセルの厚さが約5マイクロメートルと大変薄いのに対して、当時のカラーフィルターはその10倍から100倍も厚く、とても中に入ることができない状況だったのです。この対策にいろいろ検討を重ねて、最終的に1マイクロメートル以下の非常に薄いカラーフィルターをつくることに成功し、これによって世界で初めてカラーフィルターを使った液晶のカラー化を実現することができました。1981年のことです。

 すぐにこの成果を国内と国際会議で発表したところ、これは実用的ではないという大変厳しいご批判を頂きました。一つは、発光しないもので今まで鮮やかな色を出せた試しがないということです。もう一つは、カラーフィルターを入れると暗くなるために、バックライトを付ける必要があるのですが、それで液晶の1万倍くらいの電力が必要になるので超低電力という液晶の特長が失われるということでした。しかし他に方法がなかったために、その後、次々といろいろなメーカーが薄膜トランジスタとこの方式を組み合わせて、フルカラー液晶ディスプレイを実用化して下さいました。

 それからしばらくしてわかったことですが、アメリカのA. G. Fischerという方がカラーフィルターを使う方式で特許を出していました。原理はそちらの方が先行していたわけですが、カラーフィルターを液晶セルの外に設置する方式だったため、色ずれを無くすためにバックライトの光を並行光にせざるを得ないものでした。しかし実際にはこれが困難だったため実用化には至りませんでした。

 これに対して私達は前述のように、液晶セルの中の画素電極の上にカラーフィルターを形成したことで色ずれが生じず、一挙にカラー化が進んでいきました。その後、日本企業を中心として多くの企業によって液晶や関連する材料の目覚ましい改善や特性の向上が進み、今日の液晶テレビ、ノートパソコン、携帯電話などに発展していきました。

 一方、先ほど述べたように、カラー化を発表した時にバックライトによる電力の問題が厳しく指摘され、これがずっと頭に残っていました。そこで次の課題として、バックライト無しのカラー液晶ディスプレイをつくることを目指しました。周囲光を使った反射型ディスプレイとなりますが、その反射板を工夫して反射角を必要な範囲内に絞ることによって反射光強度を大幅に向上させる方法を考えました。これによって明るい反射型液晶ディスプレイが完成し、電子手帳や携帯ゲーム機などに実用されるとともに、最終的には当時白黒しかなかった携帯電話をカラー化することに成功しました。これをきっかけとして、大型テレビだけでなく小型高精細液晶ディスプレイの分野が生み出され、各種のモバイル機器や今日のスマートフォンなどへの流れが作られていきました。

 液晶ディスプレイの市場規模は、20年ほど前から一挙に拡大し、CRT(ブラウン管)がどんどん置き換わり、10兆円以上の市場にまで成長していきました。

 ここまでは研究の話でしたが、NICHeと関わる研究スタイルの話もさせて頂きたいと思います。私は1989年に教授に就任しました。当時、液晶は電子工学材料としては極めて特異な分野で、その基礎知識の講義など全く無く、学生達に新しい研究テーマについて時間をかけて丁寧に説明しても、全く理解や興味を持ってもらえない状況でした。これではいかんと思いましたが、確かに、基礎知識がなければいくら優秀な学生でも画期的な発想はできないと思いつきまして、新入生用の3か月トレーニングコースを考えることにしました。

 1年ほどかけて作り上げたものは、まず4月に新入生が研究室に入ってきたら、液晶の概要と基礎理論が書かれた英語の文献を読み、毎週その内容を分担して発表し合い、全員がそれを全て理解すること。次の5月には、その知識をもとに液晶セルを作製し、各自工夫してその基礎物性を測定すること。実は、4月に勉強する基礎理論は相当難しいものでしたが、それを理解していなければ5月の測定実験ができないので、学生達は必死に勉強してくれました。そして6月には、これらの知識と経験をもとに創意工夫して、赤、緑、青の3色を自由に変えられる液晶セルを考案し、試作することです。これを1995年からスタートさせました。その結果、いろいろな方式が学生達によって考案試作されました。やはり基礎知識があるとこれほど違うものかと驚かされました。例えば、そのうちの一例として、電圧によって透過波長を自由にコントロールできるバンドパスフィルターが実現されました。これはその後、波長可変フィルターとして実用化されて人工衛星に搭載され、地球上の植物分布を解析するなど、いろいろな用途に展開されているようです。なお、3か月トレーニングの間、先輩学生達は研究を全部ストップして装置を新入生に開放してもらいました。そして、自分達が先に経験しているために自信と誇りをもって新入生に教えてくれると共に、毎週の発表会に参加して一緒に議論してくれました。新入生は専門知識がないだけに予想外の質問や発想が出て、先輩学生達にとっても良い勉強になったようです。トレーニングコース終了後は、各学生達が研究するテーマについて説明したり議論したりしましたが、その内容をすぐに理解して興味を持ってくれると共に、1、2年で次々と成果を挙げてくれました。

 これをしばらく続けた後、液晶産業がさらに活発化し、液晶の研究人材の不足が起こり始めました。しかし、大学の仕組みでは特定の分野の学生を増やすことは難しいので、いろいろ考えた結果、会社の方達を研究生として受け入れて教育することにしました。そこで「High Performance Liquid Crystal Display研究会(HLC研究会)」という組織を設立しました。そしてその時期に、東北大学と一般企業の連携の支援を仕事としておられた東北テクノブレインズ株式会社の小山典夫取締役の多大なるご支援を頂いて、非常にスムーズにスタートを切ることができました。

 会社から研究生を受け入れて対応できるのは10人程度が限界でしたので、各社1人ずつ10社という上限を設けました。最初の3ヵ月は、先程の新入学生とともに3月トレーニングコースを受けて頂きました。そして残り9ヵ月の研究として、実用的かつ学術的研究テーマを各社とご相談して決めました。この9ヵ月で研究を完結し、会社と共同で特許を申請し、その後、国際会議で発表して論文を投稿するという目標を設定して実行しました。しかし、さすがに9ヵ月間でこれを完了できたのは少数の人達だけでした。そこで大半の研究生はもう1年継続して良いということにして、ほぼ順調に進めることができました。いずれにしてもこれを終了して会社に戻った人達はその後大きな活躍をされたようです。トータルで全24社、のべ約100人の研究生を育成することができました。

 この頃、私はNICHeの併任教授となり、会社との協同研究をスタートさせました。実は、この頃、NICHeからの条件として、「毎年5,000万円から1億円の外部資金を獲得して下さい」と言われました。それまでは私自身、その1桁くらい下の金額しか外部資金を獲得したことがなかったので、これは大変なことだと思いました。しかし、NICHeの方々のご支援のおかげで、2~3年でこれを達成することができました。周囲の先生方を見ますと、同じような方々がたくさんおられまして大変関心致しました。そのおかげで、研究の進め方、資金の獲得方法、研究の大規模化などを経験し、その後の研究を大きく進めることができました。NICHeの理念や仕組みに改めて深く感謝するとともに、心から敬意を表しております。

 最後に今後の展望です。情報化社会の中で電子機器が非常に大事な役割を果たしております。その代表としてスマートフォンがありますが、例えば音楽再生装置をとってみると、レコードから始まり、磁気テープ、CD、ネット配信へと進化して、現在はスマートフォンが中心的役割を果たしております。さらにスマートフォンは金融やら交通やらあらゆるものの中心的な役割を担い始めております。それを可能としたのが、技術としては半導体、メモリ、ディスプレイ、通信・ネットワークで、これらが非常に大きな役割を果たしています。

 中でもディスプレイはマンマシンインターフェースとして重要な役割を果たしています。その理由は、人間の五感のうち目が約85%の情報を入力しているためです。そのディスプレイのほとんどが液晶ディスプレイですが、市場としては主にテレビとスマートフォンに絞られています。このため、世界規模での激しい価格競争となり、日本はその市場から次第に締め出されてきています。

 とはいえ画像は依然として大変重要で、さらなる大型のものや太陽光の下でも見られるもの、超省電力のもの、眼鏡にディスプレイを入れ込んだものなど、まだまだ用途の広がりや発展の可能性は大きいと思われます。また、次の情報化社会では、それを支える技術として、先程申し上げた半導体、メモリ、撮像素子などの個々の発展が非常に重要であると共に、これらの連携が極めて重要です。これはどれをとっても日本が大変強い基盤をもっており、関係各位のご努力とご尽力に大いに期待をしております。

 最後に、NICHeのお陰で大きな研究を進めることができ、心から感謝申し上げる次第です。さらに発展していかれることを心から祈っております。

取材先: 東北大学     

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