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2016年 07月 29日 (金)

科学って、そもそも何だろう?:歌人の小池光さん(仙台文学館館長)に聞く 取材・写真・文/大草芳江

2012年2月20日公開

心と身体をつなぐもの、それが言葉である。

小池 光  Hikaru Koike
(歌人、仙台文学館館長)

 1947年宮城県柴田町に大池唯雄(本名小池忠雄、「兜首」「秋田口の兄弟」で第8回直木賞受賞)の長男として生まれる。東北大学大学院理学研究科修士課程修了。1972年短歌結社「短歌人」に入会。1975年埼玉県の私立高校へ理科教師として就職。1978年第1歌集『バルサの翼』を発行、翌1979年同歌集により第23回現代歌人協会賞。1980年「短歌人」の編集人となった。1995年には第4歌集『草の庭』により第1回寺山修司短歌賞。2001年、第5歌集『静物』で芸術選奨文部科学大臣新人賞(文学部門)。2004年、「滴滴集6」30首(「短歌研究」2003年1月号)および「荷風私鈔」34首(「歌壇」 2003年9月号)をもって第40回短歌研究賞。同年、評論集『茂吉を読む―五十代五歌集』で第2回前川佐美雄賞。2005年、第6歌集『滴滴集』で第16回斎藤茂吉短歌文学賞。同年、第7歌集『時のめぐりに』で第39回迢空賞をそれぞれ受賞。

 一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


日本を代表する歌人の一人で、仙台文学館の二代目館長を務める
小池光さんは、東北大学理学部物理学科の出身である。

物理学から短歌への転身はだいぶ違うことをやったようにも見えるが、
「物理と短歌なんていうのは、およそ学問の対極にあるものだけどね。
 ただ感覚としては、人が思っているほど違ったことをやってしまった、
 という感じはないですね」と、小池さんは言う。

「科学と短歌は、同じとは言えないけど、似ている」と語る、
小池さんがリアルに感じる科学とは何かを探るとともに、
そもそも短歌とは何か、なぜ短歌をつくるのかを聞いた。

<目次>
数学を解く快楽に似たものは、短歌の場合にもある
皆なぜ短歌をつくるかと言えば、おもしろいから
一方で形を壊し、一方で形あるものに憧れる
クリエイティブなものはすべて人に喜びを与える
心と身体の間をつなぐ橋みたいなもの、それが言葉
言葉を自分で新しくつくった時に、心が楽になる
生涯、文学に縁がない人なんていない
その褒める言葉が短歌なんだ
【見学記】仙台文学館「小池光 短歌講座」


歌人の小池光さん(仙台文学館館長)に聞く


数学を解く快楽に似たものは、短歌の場合にもある

―小池さんがリアルに感じる科学とは、そもそも何ですか?

 ふふふ、いきなり難しいこと聞くね(笑)。そうですね、「科学とは何ですか」ですか?大問題で、急に答え出ないねぇ。

 好奇心って、あるでしょう?知らないことを「知りたい」という欲求。つまり人間の本能かな。何事もさ、「なんでこうなったのだろう」とか「これから先どうなるのだろう」とか、人間は想像力を持ってしまったから、そういうことを考えざるを得ないじゃない。

 そういうところに、知らないものに対する好奇心みたいなものが芽生えてきて、それを体系化していくのが、サイエンスというものの一つの現れじゃないかな、と思いますね。「不思議だな」とか、そういう感じね。それは科学の第一歩なのですね。

―そもそも科学と短歌、同じところはありますか?

 そりゃ、全然別のものですよ。

―どこが最も「全然別」だと思いますか?

 だって科学は、一種の数式みたいなものでしょう?数式という言語で会話しているわけだよね。一方で、歌は「大和言葉」という約二千年も昔からある日本語で会話しているのであって、全然、その言語体系が違うわけだから。

 同じところがあるか・ないかと聞かれれば、何も無いのだけど。ただ、妙にね、感覚としては、数学なんかに似ているんだよね。

―数学と短歌、どのあたりが感覚としては似ているのですか?

 例えばね、数学には、答えが一つしか無いわけでしょう?その答えに辿り着ければゲットしたわけだし、辿り着かなければ駄目なのだけど。

 一方で短歌は、五七五七七、というものですね。五七五七まではできたけど、どうしても最後の七ができない、みたいなことって、しょっちゅうあるわけ。

 最後の七ができなくて、七転八倒して苦しんで、ある時、ひょんとそれが浮かんで、「あぁ、歌ができた」って感じがするわけね。それが一番おもしろいのだけど。

 その時、最後の答えみたいなものが、ぱん、と出てきた時の快感は、数学の問題が解けた時の快感と、すごく似ているんです。

 僕、高校時代は数学が大好きで、数学しか興味がなかったから、そればかりやっていたのだけど。数学って、すごくおもしろくて、数学を解くことは一種の快楽なんですよ。その快楽に似たものは短歌の場合にあるのです。

 「こうすれば、こうなるな」と答えが見つかった時、すごく嬉しいわけじゃないですか。その嬉しさは、わりと科学の発見なんかの嬉しさと似ていると。要するに喜びであると。そんなことは、まぁ敢えて言えば、言えるのかな。


皆なぜ短歌をつくるかと言えば、おもしろいから

―「答えが見つかった喜び」という点で見ると、短歌と数学で似ているのですね。ただ、数学の場合、その答えは私にとっても他の誰かにとっても皆同じですが、短歌の場合、私の答えとあなたの答えは違うようなイメージです。それでも「最後の答えは一つ」という感覚なのですか?

 まぁ、それは実際的にはそうだけど、「答えは一つ」というのが実感だね。読者の数だけ答えがあるようじゃ、良くない歌だね。本当に優れた歌とは、誰が読んでも「これで決まりだ」、そういうものなんです。わりと客観的なんですよね。

―短歌は客観的なイメージがあまりなかったので、なんだか意外ですね。

 良い歌はそうである。良くない歌はそうではない。

―逆に言うと、そのレベルまで行かなければ、みんなが良い歌だと思わない、ということですか?

 「みんな」って言うわけじゃ、ないけれども。「みんな」と言うのは、「例えば、みんな」なのだよね。この世にわかってくれる人が10人いればいい。100人なんて贅沢な望み。10人の人がちゃんと読んでくれれば余は満足である。そんなものなんです。

―それでは最後の「七」を、どのようにして探すのですか?

 大変なものですよ・・・七転八倒ですよ。いろいろなことしてね。逆立ちしたり、お酒を飲んだりしてね。

―科学者でも、そういうお話をする人がいます。

 そうですか。そういう点では、わりと人間って、いろいろな現れ方をしているだけで。物理学と短歌なんて、およそ学問の対極にあるものだけどね。意外と生理的なレベルと言うのかな、本音のところで言えば、そんなに違うものでもない。

 要は、好奇心が満たされた時の快感であったり、そういうプロセスで動いている分には、同じとは言えないけれども、似ているところがあるのではないですか。

―小池さんは最初に「人間の本能」とお話していましたが、そういうプロセスで見れば、科学も短歌も似ているということですね。

 そうだね。短歌とは定まった形の詩(定型詩)なのだけど、定型詩の持つ共通のおもしろさとは、快感であって。皆なぜ短歌をつくるかと言えば、おもしろいからなんですよね。

 「五七五七七」が大きなルールで、まぁ、それ以外のルールもないわけではないけど、大原則で言えばそれだけなのでね。その範囲内で、どれだけ自由に自分の言いたいことを言えたかが、歌のできばえと言うか、歌をつくる動機なのではないでしょうか。

 それは、わりと数学か何かで「できた!」とか「わかった!」とか「納得!」という感覚と似ていますね。だから、人が思っているほど、(物理学と短歌で)「違うことをやってしまった」っていう感じはないですね。

 短歌って、今で言うゲームなんだよね。昔の人はゲームの機械も何もないから、短歌をやることで、それを満たしてきたわけでしょう。そういうゲーム的な喜びみたいなものを言葉でやって、昔の人はどんどん高度なものにしていったわけです。


一方で形を壊し、一方で形あるものに憧れる

―「人が思っているほど違うことをやってしまった感じはない」ということですが、物理から短歌に転身した経緯について、もう少し詳しく教えてください。

 あんまり物理ができない学生でね。ちんぷんかんぷんで。「これはどうなっているのだろう?」と思うことがいっぱいあって。でも友達なんかは、見ていると、みんな、できるんだよね。

 それで友達に聞くと、みんな「わかる」と言うでしょう。だから僕、理科の生徒としては、すごく劣等生だったのですよ。その中で、たまたま文学が好きだったから、いろいろ本を読んだり、ちょっと真似事で詩を書いてみたり、そんなことをやっていたわけ。

 そんな中で短歌に出会って、すごくフィットしたと言うか、フィーリングが合ったと言うか。「これは言葉でやっている数学だな」という感じでしたね。数学は数式という言語でやるものだけど、日本語でやった数学みたいなものが短歌なんだ、という感じ。

―小池さん以外の歌人でも、そのように短歌を見ている人は多いですか?それとも小池さんならではの感じ方ですか?

 そうだね、あまり(他の人は)思っていないでしょうね。

―「フィーリング」ということではありますが、今思えば、なぜそう思ったのだと思いますか?

 なんか自分でもよくわからないね。ただ、形あるものに憧れていた、と言うか。僕達が学生だった頃は、形を壊す時代だったわけでしょう?全共闘運動とかね。

 今までこだわってきた形を壊す運動だったわけ。そんな中にいた時、形への憧れ、魅力のようなものを、逆に感じるようになっていたことは確かだね。

 短歌って、形だから。揺るぎない形式をもって一千二百年も生きてきたものを、改めて見てると、「あぁ、こっちの方がすごいな」と言うか、安心すると言うかね。

 だから結局、全共闘運動なんていうものと、僕が短歌やったことは、どこかですごくつながっているんですよ。心のあり方みたいなものに。一方で形を壊して、一方で形あるものに憧れる。

―そういう意味では、当時と状況は異なりますが、今も社会は不安定化しています。そんな中、普遍的なものに憧れる気持ちはわかるような気もします。そう言えば、物理学よりも短歌の方が、ずいぶん歴史が長いですね。

 短歌の方がずっと長いですね。近代科学より、はるかに昔からある形式ですから。近代科学は、せいぜいデカルト以来でしょう?だから四百年とか、そんなもんじゃないですか。短歌は一千二百年くらいやってきたわけね、五七五七七で。すごい話でしょう?

 もちろん科学だって、科学の形があるわけだよね。でもそれは私にはとても難しすぎて、わからないんだ(笑)。こっちはもう、単純だからね。五七五七七って、それだけでしょうが。わかるもわからないも、ないわけですよ。すぐにできちゃうんですよ。


クリエイティブなものはすべて人に喜びを与える

―「五七五七七だけで千二百年」は確かに「すごい話」ですね。けれども、どうやったら「すぐにできちゃう」のですか?

 そりゃ、パッとなんて、出てきませんけどね。今の私は、なかなか。やっぱり苦労して、頭を振り絞って、絞り切ってですね、七転八倒していくと、なんか、ふと出てくる。そんなもんなんですよね。

―やっぱり絞り出すものですか・・・

 絞り出す。もう、ぎりぎり、むちゃくちゃ。

―どのようにして短歌を「絞り出す」のですか?

 まずは自分の心の状態を整えて、とても良い気持ちになるようにしないと、駄目だね。

―「とても良い気持ち」とは?

 見るもの聞くものすべてに喜びがあるような、世界が愛と喜びに満ちたものであるような気持ち。例えば雑草に花が咲いていても、「きれいだな」とすごく肯定的に見れるような気持ちにならないと、やっぱりものはつくれないのね。

 普通は花が咲いていても「なんだ、花が咲いているだけじゃないか」って思うじゃないですか。すると、対象に対して愛がないから、そういうのは歌にならないの。

 だから、歌をつくる時は、心のコンディションを上げていかなければならないのだけど、それがなかなか上がらない。だから、苦労する。

 何日もかけてコンディションづくりをしても、なかなかそういうコンディションになれないわけだよね。だんだんこの歳になると、いろいろ辛いこと悲しいこと。あなたくらいの歳ならそんなことないけどさ。もう老人だから(笑)。なかなか、辛くて大変なんだ。

―辛くて大変なことは、歌にはならないのですか?

 ならないことはない。でも、それを読んでも楽しいものじゃないでしょう?人に喜びを与えるものじゃないから。

―基本的に、短歌とは人に喜びを与えるもの、ということですか?

 短歌に限らず、クリエイティブなものはすべて人に喜びを与えるから。科学だって、そうでしょう?未解決なものを解決した、っていうのは、本能的な喜びだから。それで科学者は動いているわけだよね。だから、そういう点では同じ。

―心のコンディションで言うと、最近の科学者達は「これもやらなきゃ」「あれもやらなきゃ」と忙しくて、「本能的な喜び」からどんどん離れていっているような雰囲気です。

 そうみたいだね。サイエンスが巨大化しちゃって、自分がどこかの歯車みたいにしかならないでしょう?それは本能的な喜びとか、そういうものは削ぐ方向に行くわねぇ。

 科学するということが、子どもっぽい喜びみたいなものから、良く言えば専門化して、悪く言えば、本能的な喜びに満ちているべきはずのものが、仕事とか作業とか、そんなイメージに近くなってきたね。

 それはもう完全に組織化されちゃっているから、そこから逸脱できないわけだよね。要するに、変わり者はいらないというような。変わり者がいたから、科学っておもしろいのだけど、変わり者いないものなぁ・・・。


心と身体の間をつなぐ橋みたいなもの、それが言葉

―個人としても年を取れば取るほど辛いことや悲しいことが増えて、社会としても成熟化すればするほど本能的な喜びからは離れてしまう。では、どんなことに気をつければ、心のコンディションは整えられますか?

 まずは歩く。あとは、電車に乗るとかね。乗り物に乗る、っていうのは、いいんだよね。

―直接関係なさそうに思えますが、それはなぜですか?

 適度に振動が加わって、あるリズムがあって。そこに身を委ねていると、自分の心の中にある困ったものが、なんか溶け出すような気がして。要するに、無に近づく、みたいな。

 我々が生きている時、ネガティブな感情が山ほどあって、要するにマイナス状態になっているわけですよ。

 でも、ものをつくるのはプラス状態のできごとだから、マイナスからプラスに移さないと、ものはできないわけね。その真ん中にあるのが0のライン。だから心のコンディションを整えるというのは、0のところに自分を置くみたいな感じですね。

―プラスではなく、0ですか?

 プラスじゃなく、とりあえず0に置いて、そこからプラスに持っていく。今までのネガティブなものをクリアしていかないと、創造的なものは見えてこない。これは、科学でも同じじゃないかな。

 だから、そのためにすごく素朴に、自転車に乗ったり、歩いたり、電車に乗ったり。昔の人は、そういうことを、もっと旅としてさ、歌をつくっていったわけだけども。

 毎日毎日が小さな旅行みたいなの。例えば(仙台文学館館長として月に数回、東京から)仙台に来るのだって、仕事で行くというのではなく、小さな旅をしているような気持ちになれると、いいんだよね。なかなか、なれないのだけどね。

 うまくなれた時は、なんか気持ちがいいんだな、喜びがあるんですよ。要するに、家にこもって机の前に座っていたって、短歌はできないってことだよ。だから外界に出る、肉体を動かす。

 短歌って、リズムだからさ。リズムって、身体感覚じゃない?身体を使わないとね。だから短歌って、結構、身体を使って書くものなんですよ(笑)。

 それで、ポケットに手帳を一冊しのばせておいてさ、ちょっと浮かんだフレーズをそこに書きつけるとか。そんなことをやっていて、詩の形にしていくんだね。

―心と身体はつながっているんですね。

 そう、つながっている、つながっているの。人間は心と身体からできているわけだけど、両者って、全く違うものじゃないですか。その違うものであることが、人間をすごく苦しめているのだけど。

 心と身体の間をつなぐ橋みたいなもの。それが言葉であり、その言葉を様式化したものが短歌になる。だから非常に肉体的なことを精神的なものでカバーしている、と言うかさ。

―心と身体がつながっている感覚、現代社会では少なくなっている感じがします。むしろ心と身体が乖離しているような感覚がありますね。

 現代人は皆、そういう悩みは抱えちゃっているよね。そういう意味で、昔の人がね、やっぱり乖離していなかったんだよね。さかのぼればさかのぼるほど。人間は昔、心的存在と肉体的存在が、それほど葛藤していなかったんでしょう。

 それがだんだん分離することによって、近代文明が生まれるわけだけど、そこですでに失われたものがあってね。それが今ますます肥大化している。全体性を失わせている、というのがある。

 全体性が失われちゃって分断化されて、細かなところだけにやらせられて。すると、あまりおもしろくないよね。喜びがないんだよね。もっと生々しく喜んで生きていきたいと思うのだけど。


言葉を自分で新しくつくった時に、心が楽になる

―その「生々しい喜び」というもの、心と身体がつながった喜びというものは、一体どういうものですか?

 どういう風なんだろうね。難しいね、哲学の問題だね。

―そこを何とか言語化してもらいたいのです。

 例えば、1万円札を今日、失ったとするでしょう。すごくショックじゃないですか。すごく心が縮み乱れて。ところが、その日にさ、良い歌を一首つくれれば、1万円札はなくなったけど、一首できたから±0だ。そんな感じ、というのは答えにならないのかなぁ。

 何かを得たんだよね、歌をつくることによって、私は。それは、失った1万円分くらいに値するような財産。それを10つくれれば10万円儲けた、そんな感覚かな。答えにならないけどさ(笑)・・・あなたの質問は、随分難しいね。

―何か大切な物を失ったとしても、それによって何かを得て±0という感覚はわかる気もします。けれども「1万円」の例えには、交換可能な価値という意味も含まれていますか?それとも、一度失ったら取り戻せない、お金で買えない価値を失うという比喩ですか?

 じゃあ、その1万円の話は、ちょっと例が悪かったから、やめよう。

 あのね、私、家内を亡くしたのね。もう1年半くらいになるのだけど。すごいショックと悲しみに浸されるじゃないか。でもその時の歌をつくって、「あぁ、この歌ならできたな」という感じを得ると、慰められるんだよね。

 悲しみは心の問題だけど、結局、慰めはむしろ肉体的な要素であって。ちょっと肩の荷がおりるとか、なんか体が柔らかくなるとか、ご飯が美味しいとか。そういう肉体的なものにフィードバックしていく、って言うのかな。

 だから、妻を失うなんて深刻な体験が、歌をつくることで痛みが和らぐ、少しだけどね。それがさっきの1万円札の喩えで言ってみたかったのだけど。

 生きていくことは、常に失いに満ちていることでさ。あなたはまだ若いから、そんな実感はないだろうけど。僕らくらいの歳になると、もう日々失っていくわけでしょう?老化っていうのはさ。できていたことが、できなくなるわけだから。

―身体の方で言えば、私事ですが、ぎっくり腰をしてから腰痛持ちになり、前より自由に動けなくなってきました。

 腰痛も辛いよなぁ。だから、腰痛がこれだけ辛いということを歌にすると、その腰痛が少し和らぐ気がする、良い歌ができればね。

 歌には、つくることで、その人を支えたり、救ったりするものがあって。歌に限らず、文学って、そういうものだと思うけど。歌は特に、簡単明瞭にそれができる形だね。

―そう考えみると、人間って不思議な存在ですね。

 不思議な存在だねぇ。もう心と身体っていう全然違うものが、直結しちゃうからね。心のダメージがすぐ身体のダメージになって現れたりするから。だから、心が動かない時は、身体を動かすんだよ。

―最初に小池さんが「心のコンディションを整えるために、歩いたり電車に乗る」とお話された時は意外に思いました。けれども、そもそも心と身体はつながっていて、例えば腰痛でも、失ってしまった大切な何かを材料にして自分が価値だと思うところで何か新しいものをつくれたら、逆に失わなければ得られなかったものかもしれない、これはこれで良かったのかもしれない、って思えるかもしれないですね。

 そうそう。腰痛して得した、みたいな。そういうことなんだ。歌にはネガティブなものをプラスに転じるような要素があって。

 だから大昔から、どんな種類の民族でも、歌や詩や文学は必ずあるわけでしょう?文字を持たない民族でも、歌や詩はあったわけだよね。

 それは、どうしたら心の痛みを和らげてくれるのだろうという時、やっぱり言葉というものと出会う。心と身体をつなぐものが、言葉である。何かそういう役割をしているんですね。

―よくよく考えてみると、言葉や心って、よく知っているようで、実は何だかよくわからない不思議なものなのですね。

 心って、よくわからないでしょう?誰もが知っているものだけど。心というのは何かと言えば、その言葉なんだよね。言葉イコール心みたいなものだから。

 言葉の集まったものの全体像が、心というわけですよ。その人が持っている言葉の体系全部が心というもので行っているわけだよ。そう私は思うんだよ。心とは言葉である。

 だから、その言葉を自分で新しくつくった時に、心が楽になる。難しいことだけども、結局、その喜びと言うか、回復力を頼んで、文学をやり続けている、ということじゃないですか。


生涯、文学に縁がない人なんていない

―小池さんも、だから歌をつくっているのですか。

 もっと若くて元気いっぱいの10年、20年昔を振り返れば、すごく歌をつくることが楽しくて。ひとつできればもうニコニコで。ネガティブなものが拭い去られる気がしてね。だから歌をつくったんだと思うんだけど。

 今はちょっと、心と身体の具合がうまくいかなくて、お休みしている感じがするね。やっぱり家内が亡くなったのがすごくショックで、なかなかそこからね。常にネガティブな状態に心があって、いくら散歩しても0まで戻れないところで今、苦しいんでいるわけ。

―自分はまだ、そこまで大きなものを失ってしまったことを想像できないです。逆に今日、自分で自分に驚いたのは、心と身体のつながりを、普段あまり考えていないのだな、と。

 あぁ、それは健康な姿。要するに健康な人って、そんなことで悩まないわけだよ。そうでしょう?だから、それはそれでいいの。

 文学や短歌は、ある意味で健康な人には縁のないものであって。そんなものなくても、平気で生きているじゃないですか、いくらでも。本を全然読まない人だって山ほどいて。

 ただ、心と身体が乖離していることに、すごい苦痛を感じてしまう時があるのよ、人生というのは、誰でも。生まれてから死ぬまで幸せだった人なんて、いないのだから。非常に深刻な自体に直面して、とても苦しくなった時に、誰でもそこで苦労するのだよね。

 だって、神様にお祈りするとかさ、それはもう100%、心の問題でしょう?でも、それはその人の辛い肉体を救うために、心が出てきたわけです。信じることで、心が引っ張り上げられて、その勢いで体も引っ張り上げよう、みたいなね。

 そういう欲求は必ずどんな人にでも、そんな局面は出てくるので、そういう意味では、生涯、文学に縁がない人なんていない、と思いますね。

 人生って、まっすぐじゃなくて、途中で、ドカンというのが来るわけですよ。ドカンって上がる場合もあるだろうけどね。ドカンと沈んだ時、どうやってそこから這い出るかは、もう必死になるわけだよね、どんな人でもね。

 短歌をつくることは、そういう時の救済の手段としてある、と言えばいいかな。小さな手段なのだけども。だから、歌をつくる人はなくならないし、皆、歌をそれなりに必死になってつくって何とか自分を支えている、ってわけなんだね。

 心が少し軽くなると言うかね。肩こりの時にマッサージを受けると、気持ち良いじゃないですか。あんな感じで、言葉のマッサージみたいなものなんだな(笑)。

 自分で自分をマッサージしているのだけど、うまくマッサージすると、肩こりが楽になる、みたいな。そんな感じが近いかな。


その褒める言葉が短歌なんだ

―最後に、今までのお話を踏まえて、中高生も含めた読者へメッセージをお願いします。

 我々は、言葉に操られるばかりじゃないですか。言葉に操られるのではなくて、自分で言葉を操ってごらん。歌でもつくってごらん。結構おもしろいよ。

 人の言った言葉ではなくて、自分の言った言葉で何か喋ってごらん。それは思いがけず、楽しいものだよ。

 もっと具体的に言えばね、褒められると、誰でも嬉しいでしょう?その言葉って、一生忘れないじゃないですか。だからあなたも誰かを褒めてごらん。その褒める言葉が、短歌なんだ。

 人間でなくても、良いけどさ。太陽が東の空から上ってきて、すごく素敵だと思った。それは、太陽を喜ばせているのだから。

 言葉を発するということは、誰かを喜ばせる、誰かを慰めることなので、だから結構、おもしろいのだよね。

 あなたが褒められて嬉しいように、あなたの歌を読んで誰かがおもしろがれば、素敵じゃないか。

―言葉は私の心と身体だけでなく、他の誰かもつなぎ、それがまた私を喜ばせるのですね。

 喜んでいる人を見ることは、良いことじゃないですか。まして、自分が喜ばせたと思ったら、嬉しいわけでしょう。

 そういう嬉しさや喜びというものを、言葉はつくりだす力があるのだから。

―小池さん、本日はどうもありがとうございました。


【見学記】仙台文学館「小池光 短歌講座」

 仙台文学館では、「小池光短歌講座2011」を毎月開講しています。事前に参加者から募集した短歌を小池さんが一首ずつ講評する講座で、ユーモアを交えながらのわかりやすい指摘に、会場いっぱいの受講者らは熱心に耳を傾けていました。


「小池光 短歌講座2011」のようす


小池さんが参加者からの短歌を一首ずつ講評


取材先: 仙台市文学館      (タグ: , ,

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