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2018年 10月 19日 ()

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.16】創業から80余年、築き上げてきた顧客との信頼関係により、潜在的ニーズをいち早く掴み、ニッチ市場No.1シェアの多様な商品を展開/遠藤工業(新潟県燕市)社長の遠藤光緑さんに聞く 取材・写真・文/大草芳江

2018年04月02日公開

創業から80余年、築き上げてきた顧客との信頼関係により、
潜在的ニーズをいち早く掴み、
ニッチ市場No.1シェアの多様な商品を展開。

遠藤工業株式会社(新潟県燕市)
代表取締役 遠藤 光緑 Koroku Endo

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.16)
 新潟県燕市に本社を構える遠藤工業株式会社(1935年設立、従業員194名、資本金6,000万円)は、産業用機械・機具を自社で開発し、自社ブランドで製造・販売しているメーカーである。内蔵する渦巻きゼンマイの力を利用して、吊下げ物を任意の位置で保持することで、工場等における作業者の負担を軽減する装置「スプリングバランサー」は、国内市場では90%超のシェアを握り、世界市場では約50の国と地域に輸出している。また、移動体・回転体へスムーズに電気を供給する技術を有し、クレーンや搬送台車・舞台照明等に使われるケーブルリール、電力や信号を通信機器等へ伝えるスリップリングを製造。環境関連の分野では、多種多様なものを粉砕・破砕処理する各種破砕機を取り揃え、ゴミ処理施設やリサイクル施設、一般工場等で使われている。1969年「新潟県技術賞」受賞、1980年 Tryron(洋食器)がNY近代美術館Permanent Design Collection入、1990年「第7回新潟県産業振興賞」受賞。そんなオンリーワン企業である遠藤工業がオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役の遠藤光緑さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以と、それに至るまでの経緯について、教えてください。

◆ 潜在的ニーズに応え続け、ニッチ市場でシェアNo.1を目指す

 我々は中小企業ですが、昭和10年(1935年)の創業以来、幾多の変遷を経ながらも自社ブランドでずっと製造・販売している完成品メーカーです。世の中には必要とされる様々な商品・サービスがあり、ハイテクからローテク、大きなビジネスから小さなビジネスまで、いろいろな商品があってはじめて世の中全体の産業が成り立っています。そして、各商品を見ていくと、それ単独では小さな市場しかないけれども、「それがないと困る」というニッチな市場があります。それを探すには「目利き」が必要となるわけですが、それをここ50~60年間、ずっと探しながらやってきました。人からは「先見の明があった」と言われますが、実際にはそうではなく、やむにやまれず変化していく必要性に迫られ、結果的に大手企業が参入してこない分野で事業を営んできました。それを明示的に意識し始めたのは約30~40年前になってからで、先代社長である父が、当時はまだあまり一般的ではなかった「ニッチ市場を探す」という基本方針を打ち出しました。

― どのような指針でニッチ市場を探すのですか?

 人と人とのお付き合い、人と人とのつながりからです。例えば、ある製品をやっていると、商社やエンドユーザーのお客様から、「それができるなら、こんなものもできないか?」という話が来るのですよ。その話に対して、私どもは必ず「できます」と応え続けてきました。茶化して言えば、根拠のない楽観主義と言えますが(笑)、それは絶えず「立ち止まらず、未来に向かい変化し続けなければいけない」という想いがあったためで、創業以来80余年、どんな苦境の中にあっても前向きに、いろいろなことにチャレンジし続けてきました。


◆ 洋食器から工作機械へ。終戦後はGHQ管理下で生産活動停止

― 貴社の事業はどのように変化していったのですか?

 当社は、茶托や薬缶を一枚の銅板から鎚で打ち出す鎚起銅器の職人だった、祖父によって創業されました。祖父は大正時代の中頃から、機械を導入して金属製洋食器の製造を開始し、昭和10年(1935年)、洋食器等の大量生産を目的に、個人商店を会社組織に変更し、遠藤工業株式会社を創立しました。

 しかし創立後間もなく、第二次世界大戦(1939年~1945年)の開戦ムードが高まる中、洋食器製造の続行が難しくなりました。危機感を抱いた創業者がいろいろな人に相談したところ、「これからは軍事産業だから、工作機械をやりなさい」との助言を受けたそうです。それまでは当社に工作機械の技術者はいなかったので、周囲の協力により、専門の技術者を会社に迎え入れたり、当時群馬県にあった中島飛行機製作所(SUBARUの前身)に技術指導を仰いだりして、航空機部品等の製造を行いました。

 しかし、そのために終戦翌年の昭和21年(1946年)、当社はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から工作機械製作部門の「賠償指定工場」とされ、進駐軍の管理下におかれます。当社の前にはGHQの憲兵二人が毎日銃剣を持って立っていたそうです。賠償指定工場の間は、生産活動がすべて停止にされてしまい、当社の経営は大変厳しくなりました。昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって日本に特需がもたらされた時、この町もアメリカ軍からの洋食器注文の急増により戦後の不況から脱する中、当社はGHQの管理下におかれていたために、戦後のスタートダッシュが遅れたのです。昭和27年(1952年)、サンフランシスコ講和条約の発効に伴い、賠償指定工場を解除されて初めて、当社は"戦後"を迎えました。


◆ 主力商品スプリングバランサーの誕生

半導体部品から自動車部品まで、あらゆる素材の表面に機能を付与することで付加価値の高い製品を供給する。

スプリングバランサー

自動車工場で溶接機を吊るスプリングバランサー

 ようやく生産を再開でき、遠藤工業で何がつくれるかを考えた時、戦争中に小松製作所の指導で丸鋸(まるのこ)盤という工作機械をつくっていた関係で、その図面が工場に保管されていることに気付きました。「これなら自分たちでも作れるな」と自社製品として丸鋸盤の製造を始めました。

 一方、昭和20年代、いすゞ自動車のエンジニアから商社を通じて、1枚の写真とともに「海外製バランサーを国産化できないだろうか」という話が持ち込まれました。当時は進駐軍による管理が解除されたばかりの頃で会社は暇でしたから、「できます」と、根拠のない楽観主義で手を挙げて(笑)、見様見真似で作り始めたのです。苦労に苦労を重ね、やっと完成したサンプルを手に各自動車メーカーをまわりましたが、当初は誰からも相手にされず、「こんなもの使えるか」とサンプルを足で蹴っ飛ばされたこともあったと聞いています。

 バランサーとは、うずまきゼンマイの張力を利用し、懸垂する工具等を任意の高さでバランスすることで作業者の負担を軽減する、組立工場等で不可欠な装置です。キーコンポーネント(心臓部となる構成要素)であるスプリングの耐久性(寿命)がポイントで、今もそれが圧倒的に優れている点が当社商品の特長となっています。当時もスプリングの耐久性を研究していた時、新潟大学の先生にその研究を依頼したそうです。その先生の論文が昭和36年(1961年)に学会誌に掲載され、それを見たトヨタ自動車が採用したことを契機に、国内の自動車メーカー他社にも販路が広がっていきました。その後、スプリングバランサーは国内市場で90%を超すシェアを占める、当社の主力商品となりました。

 現在、当社のビジネスは大きく3つの分野に分けられます。ひとつ目が、今お話したスプリングバランサー等の「荷役機器」。次に、ケーブルリール等の「給電機器」。3つ目がモノを破砕するための「環境機械」です。ちなみに、売上の約3割近くは輸出によるものです。


◆ エンドユーザーとの信頼関係こそ財産

大当クレーンやゴミクレーン等へのスムーズな電源供給用にケーブルリールが使用されている。

プラスチックや木材、金属屑等を破砕して細かくできる破砕機は、自治体のリサイクルセンターや一般工場等で使用されている。

 スプリングバランサーから派生した商品もいろいろあります。スプリングやモータの力でケーブルを自動で巻取る「ケーブルリール」も、スプリングの大きさは違うものの基本的な構造は同じです。ある商社の方が工場見学に来られた時、「ケーブルリールも生産できるのでは」というお話をいただいて、それがリールを始めるきっかけになりました。

 3つ目の事業の柱である環境機械については、約30年前から「新しい事業をやりなさい」と先代社長に言われてきた中で、私が新たに開拓してきたビジネスです。そのプロジェクトが生まれたきっかけも、それまでずっと切断機を納めていたアルミサッシの加工工場から、「切った後に発生する大量の金属屑を溶解工場までトラックで運ぶ時、できるだけたくさん乗せたいので、細かく砕いて容積を小さくできないだろうか」という話をいただいたことでした。様々な試行錯誤を経て、今では破砕機も事業のひとつの柱として成長しています。

 このように、当社の事業が生まれてきた背景には、すべて理由があります。それもある日突然、偶然舞い降りてきたわけではなく、冒頭にお話した通り、人と人とのつながりによるものです。ある分野で自分たちが商売を通じて、お客様との信頼関係を構築してきた結果、いろいろなお話をいただけるわけですから、この信頼関係こそ当社の財産と考えています。

 今でもいろいろなお話をいただきます。新しい技術開発や環境問題等、ものづくりの現場も目まぐるしく進化しており、数年前には想像できなかったニーズが生まれています。当社は自社ブランドで直接販売しているため、国内外の業界トップメーカーのお客様から「この商品のこの部分を改良してほしい」等という要望や意見等をダイレクトに聞くことができます。エンドユーザーとの結びつきが非常に強いという当社の強みを活かしながら、刻々と変化する市場の潜在的ニーズをいち早くつかみ、新たな需要を創造していくことが、会社発展の鍵と考えています。そのためにもお客様からのお話に「できます」と前向きに挑戦し続け、変化を恐れない行動力こそ必要であり、絶えず変化していくことが社長の仕事であると私は考えています。たとえすぐには結果が出なくとも、「1年2年やって成果が出なければ社長を辞めろ」とは言われない家族経営的な企業である点を甘んじることなくメリットとして活かすことを心掛けています。


◆ 進化するものづくりの現場に対応した商品開発と海外展開加速

― 今後の展望については、どのようにお考えですか?

「ぜんまいモータ」の応用例。移動することでゼンマイに力を蓄え、その力で元の場所に戻る台車やターンテーブル等をつくることができる。

 環境機械については現在、破砕機を柱にしていますが、それと並ぶもうひとつの柱として、バイオマス関係で求められている機械を開発中です。荷役機器については、ものづくりの現場が劇的に進化していく中、スプリングバランサーの用途も変化しています。最近では製造業のお客様向けに、近年のものづくりの現場で注目されている「からくり改善」(ものの自重やテコの原理、ゼンマイ、滑車の原理等を利用したシンプルな機構で、電気を使わずお金もかけずに、日常の問題を創意工夫で改善すること)に使われる「四角バランサー」や「ぜんまいモータ」を開発し、収益を伸ばしています。また、給電機器についても、情報化時代、IoTの普及で需要拡大が予想される、ネットワーク信号対応の商品を開発中です。

2017年10月にドイツで開催された展示会「Motek」にスプリングバランサーとからくり関連商品を出展。

 それとともに、当社売上の約3割を占める海外輸出についても、今後ますます世界市場は広がると肌身で感じています。当社では、海外各エリアに代理店を置くとともに、インドと中国に現地法人を設立しています。これらを拠点として、日本と同じくらいの納期で世界中に商品を供給できる仕組みをつくりたいと考えています。ちなみに、なぜインドなのかと言うと、2017年の新車販売数がドイツを抜いて世界4位に浮上する等、さらなる成長が予想されるインド市場において当社の存在感を高めるには拠点が必要だと判断したからです。さらに、地図を見てもらうとわかるように、インドのすぐ近くに中東やアフリカが位置しています。将来的には、モータリゼーション到来間近との期待が高まるアフリカ市場への足掛かりになると見込んでいます。地球以外の拠点は考えていません。でも、もし地球に重力が無くなったら当社は困ってしまいますね(笑)。

社長が二十歳だった頃

― 次に、遠藤さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 理不尽な経験が人を成長させる

 二十歳の頃を話すには、私の子ども時代から話す必要があります。小学校の頃から基本的に"ひねくれ者"です。小学校高学年から中学生の頃は、「学校の先生を如何にやっつけるか」を生き甲斐にして反抗していました(笑)。というのも、先生が矛盾することや間違っていることを平気で言うものだから、その間違いを正すわけです。例えば、私が児童会会長を務めていた時、運動会で先生から「来賓の前で右手を上げて敬礼しろ」と言われたので、「なぜナチス式敬礼をやらせるのですか。あなたは歴史を知らないのか」と指摘すると、先生はカンカンになって怒り、昔ですから殴ったり、廊下に立たせたり、理科室に閉じ込めたりしました。その類の過ちを私が正して先生から怒られるたびに「大変だった。ひねくれて非行に走らず、よかった」と晩年母が語っています。学校では、教わったというより、世の中には如何に仕方ない大人がたくさんいるかを学びました。ただ、私のひとつ上の姉は「よい先生ばかりだった」と言うので、人によって随分と感じ方が違うのだなと驚きましたね。

 中学で熱中したバスケット以外は高校までは、あまりよい思い出がありません。子どもの頃から、この町が嫌いで嫌いで、仕方がありませんでした。今の時代とは違って当時は、緑色や青色をしためっきの廃液が町に垂れ流しで、煤で顔が真っ黒な人や機械で怪我をして手の指が無い人もいっぱいましたから、とてもよい町とは思えなかったのです。

 大学は、姉が行った東京には行きたくなかったのと、雪が近くにあるところがいいという理由で、北海道大学か東北大学にしようと思い、1974年(昭和49年)、距離的に近い東北大学工学部の方に進学しました。「俺はもう死んだものと思ってくれ、但し仕送りだけは頼む」と言い残して地元を離れて行ったと、母が晩年笑いながら話していました(笑)。二食付き風呂なしの下宿に入り、入学した年の夏には狂乱物価、大学2年生の時には学生運動が起こった時代で、暗かったですね。英語の授業も、自分はさっぱり聞き取れないのに、まわりはきちんと聞き取っているようすで、「俺がここに来たのは間違いだったのかな...」と思ったり。彼女もいなかったですし、もうコンプレックスの塊でした(笑)。それが私の二十歳だった頃です。

 大学4年生の時、「このまま卒業すれば何も勉強しないまま卒業して就職になってしまう」と、9月に大学院の入試を受けました。「勉強をしなくても受かる」という周囲の話を真に受けて勉強をしなかったら、確か15人中4人くらいしか合格せず、私も不合格者のうちの一人になってしまいました。「こんなはずじゃなかった」とそこから一生懸命勉強して、2月の入試で無事合格。その頃からちゃんと勉強するようになりました。配属された研究室では、人間関係を学びました。指導教官の助教授がテニス好きで、研究室の中で先生が一番テニスが上手く、私が一番下手でしたから、よく先生とダブルスを組まされました。私は前に出るべきか・出ないべきか、毎回悩み、どうやっても先生からは「違う!」と怒られました(笑)。また、当時先生方や先輩からいろいろなことを教わりました。でも具体的に何をしろとかの話は少なく、「この人は一体何を言いたいのか、よくわからないな」と思う禅問答のような話が多かったように思います。でも、そのたびに必死になって考えてきた経験は、今振り返ると、非常に重要だったと思うのです。今はなんでもかんでもわかりやすく教えてくれるのが当然という世の中ですが、それと引き換えに考える力や生きる力は衰えているのではないでしょうか。中学生の時に熱中したバスケットの部活でも、今では全く考えられない非科学的、非合理的な方法でしごかれましたが、その時も何でこんなことをしているのかと考えました。でもそれらがいい思い出になっています。理不尽だと思う経験によって、人間、鍛えられますからね。理不尽が人を成長させるのです。


◆ 厳しくて怖かった父のこと

 大学院を卒業して就職しようという時、会社のことが頭にあったので、100円玉を何枚か握りしめて公衆電話から父に電話し、「そろそろ就職のことを考えようと思うけど、将来、会社を継ぐことを考えた方がいい?」と一度だけ相談しました。父の答えは「何を生意気なことを言っているんだ。お前を頼るほど、俺は落ちぶれていない!」でした。そこまで言うのならと、当時大学に求人の来ていた東芝に入社し研究所に配属されました。そこには全国から多士済々なメンバーが集まって最先端技術の研究開発に取り組んでおり、多くの刺激を受けました。自由な雰囲気の中で仕事も遊びも充実した日々を過ごし、東芝にいた6年半が私の青春時代でした(笑)。その時に先端技術に触れられたことと、当時の上司や先輩、同僚と今でもお付き合いできていることが私の財産です。

― どのような契機で、こちらの会社に戻ることになったのですか?

 昭和56年新潟豪雪で、雪降ろしのために週末帰省した時、老いた父親の姿を見ました。その後も、父は病気で入院を繰り返すようになり、父の年齢のことが気になっていたことがひとつです。もうひとつは、東京営業所にいた常務の存在が大きかったですね。常務からは「ゴルフくらいやったらどうかい?」との誘いを受けて、嫌な予感はしつつ(笑)しばらく一緒にゴルフに行くことを繰り返していました。しばらくすると、「ちょっとゴルフクラブでも買ったらどう?」と百貨店に連れていかれ、「でも、お金がないなぁ」と思っていたら、「いいから、いいから、持っていきなさい」とクラブを渡されて(笑)。「これはまずいな」と思いながらも、ゴルフで釣られていくうち、だんだんその気にもなってきますよね(笑)。30歳になって先が見えてきたこともあって、父に「そろそろ来年7月頃に戻ろうと思うけど」と連絡すると、父の答えは「あぁそうか。お前がそう思うなら、そうすればいいさ」でした。天邪鬼でひねくれ者なんですよ(笑)。

― お父様はどのような方だったのですか?

 父は一部で「燕の三奇人」と噂されるくらい、強烈な個性の持ち主でかつ怖い人でした。OB会の話題が「先代社長が怒鳴ると、ガラスの窓がぴしぴし動いたよね」というくらい、会社でしょっちゅう朝から晩まで怒鳴っていました。富山のお客様が、納期遅れのクレームのために来社された時のこと。父はそのお客様そっちのけで担当部長全員を1時間も2時間も怒鳴り続けたそうです。そして最後そのお客様に対して「そういうことだ。だから申し訳ない。間に合わない」とだけ言ったそうですよ。そのお客様は、「これひょっとしたら演技じゃねえかなって思ったけど、あまりにも怒鳴られ続けている部長たちのことが途中から気の毒になって、文句を言えず帰ったよ」と後年話していました。なかなかそこまで本気で怒れないと思います。しかし父のこの個性、強力なリーダーシップのおかげで、昭和30年代、40年代の会社の苦しい時代を乗り切ることができたのだと思います。仕事を離れると明るく楽しい人でもありました。私が雪を好きになりスキーに凝ったのも父の影響でした。


◆ 世の中に「絶対」はない

 アメリカがドルと金の交換を停止したニクソン・ショック(1971年)の時、父は、「所詮、札(通貨)なんか価値が無いんだ」と話していました。確かに、今の仮想通貨だって、皆が大丈夫と信じているだけで、一気に価値が無くなることだってあるかもしれません。父は終戦時に国から退職金を小切手でもらい、翌年1月に換金できるはずだったのが不渡りを食ったので、世の中に「絶対」というものはないことが、肌感覚でわかるのだと思います。そもそも地球のサイズから見たら、地震も噴火もこの豪雪もまだ科学・技術でコントロールできないくらい人間はちっぽけな存在です。だからこそ「できる」という根拠のない楽観主義で、変化を恐れない行動力が大切だと思うのです。天邪鬼で二十歳の頃は暗かったですが、今は結構楽しいですよ(笑)。

 最近の若い人はいい子で素直過ぎて、天邪鬼がいないですね。いつの時代でも「今の若い者は」と言うらしいですが、でもやはりそれは駄目だろうと思います。「俺が言った通りにやるなよ」と言いたいです。もちろん「こうした方がよい」と思って言うこともありますが、議論のために敢えて投げかけている言葉もあるわけで、それをそのまま鵜呑みにしてはいけません。ですから最近は私も言い方に気を付けて、「こんな考え方もあるかもね、君が自分で決めなさいよ」と社員に接するようにしています。自分で考えるのは訓練です。教わる"教育"のみならず、できるようになるまで同じことを繰り返しやる"訓練"、その両方が社員教育でも必要だと考えています。

我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ 自分の仕事が世の中に役立っているか直接感じられる環境が自慢

 我が社の環境自慢は、エンドユーザーの話を直接聞くことができ、フィードバックできる環境にあることです。人間、仕事をするからには、自分の仕事が世の中に役に立っているか、評価されたいですよね。できるだけ若い人たちにも、自分のやった仕事が「社長にとって」ではなく「お客様にとって」良いか・悪いかを直接ビシビシと感じられる仕事を担当させています。

◆ 若手でもいろいろな経験を積むことができる

 若い人にも、海外の展示会等の社外へ積極的に派遣し、可能性があるなら、いろいろな経験をどんどんさせてやりたいと考えています。それをどう感じるかは本人の問題ですが、自分がわかっていないことがわかることはよいことです。結局、会社とは社長のものでも誰のものでもなく、自分が仕事をする土俵です。極端な言い方かもしれませんが、その土俵をできるだけ好きに使えるようにしてあげたい、そんな場を目指しているつもりです。

若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえ、次世代へのメッセージをお願いします。

◆ もっと貪欲になれ。これからがもっとおもしろい時代になる。

 特に今の若い人たちには「もっと貪欲になれ」と言いたいです。これからの10年、20年、特にエンジニアにとって、こんなにおもしろい時期はないと思います。いろいろな技術がどんどん進歩し、ものすごい技術革新の真っ只中にありますから、それらの技術を使って世の中の仕組みをガラッと変えられる可能性を秘めている時期に、仕事をガンガンできることはハッピーなことです。ぜひそのチャンスを活かしてほしいですね。これからがおもしろいですよ。

― 遠藤さん、本日はありがとうございました。


社員に聞く、我が社の環境自慢

◆ 自分の意見を反映でき、やりがいを感じられる環境が自慢。
 /営業本部 海外営業担当部長 赤川大介さん(44歳、入社10年目、新潟県新潟市出身)

 遠藤工業の海外営業の募集を見つけたことが当社に入社したきっかけです。それまで海外営業の経験はなかったのですが、新しいことにチャレンジしようと応募し、今年で入社10年目になります。

 当社は日本国内のみならず、世界約50の国と地域に輸出をしております。海外での主なお客様は自動車メーカーやその関連企業で、代理店さんを通じて商売をしております。私は代理店さんやエンドユーザーさんに対して当社商品のPRや修理研修の提案、代理店さんの新規開拓等を担当しています。

 2011年、インドに現地法人を立ち上げた時には、現地法人のジェネラルマネージャーとして2011年から2015年まで家族とともにインドに駐在しました。あまりにも日本の文化と違うことに戸惑い、苦労は絶えませんでしたが、終わってみれば自信につながりました。あと駐在時代と比較して怒る頻度は減ったと思います(笑)。

 我が社の環境自慢は、自分たちの意見が反映されやすく、自分の仕事に対してやりがいを感じられる場を会社が提供してくれることです。その分、責任は大きく、発言に対する重みを感じます。また、何か新しいことをやりたい時のコミュニケーションも早くて活発です。また、面倒見のよい方が多いので、仕事がやりやすいこともありがたいことです。遠藤社長のお人柄が大きいと思いますが、私たちのことを受け入れてくれる、とてもよい環境だと思います。

 これからは、海外営業担当部長という役職で部下を管理する立場ですから、周りを活かすスキルや立ち振舞いをさらに磨きつつ、部としてより力を発揮できるよう努める所存です。


◆ 積極的に学べ、成長を実感できる環境が自慢。
 /製造本部 組立グループ 廣野秀人さん(24歳、入社6年目、新潟県加茂市出身)

 私は、スプリングバランサーの組立を担当しています。オーソドックスな製品の他に、お客様のニーズに合わせた特型機種も組んでいます。

 高校卒業後すぐ当社に入社しました。私は普通高校の出身ですが、当社に入社した理由は、就職活動で会社見学をした時、「知識ゼロからスタートしても色々教えてもらえるから、工業高校出身でなくても大丈夫だよ」と案内してもらったこと。もうひとつは、私は野球をしていたのですが、遠藤工業には野球部があり福利厚生もしっかりしていること。それと年齢に関係なく、社員同士が明るく喋っていた雰囲気の良さが気に入り、今年で入社して6年目です。

 我が社の環境自慢は、ここ数年で強く感じていることですが、一言で言えば、学ぶことができるところです。例えば、会社全体で取組んでいる「QC(クオリティ・コントロール)活動」では、現場でチームを組み、品質向上や効率化等にむけた様々な問題の提起・改善に継続的に取組んでいるところですが、私も数年前からチームリーダーになって、QC活動に本腰を入れるようになると、学びたいことが増えてきました。そんな時も、気軽に上司に相談でき、単に「やれ」と言われるのではなく、自分が「こうしたい」と意見等を言えば、それができるよう周囲がサポートしてくれ、勉強会等にも参加させてもらえます。また、「からくり改善?くふう展」出展用に特殊なバランサーを組んでいた時、「これが現場でどんな風に使われるか見てみたい」と何気なく言うと、「現場の感じ方を勉強してこい」と展示会に連れて行ってもらえ、そこで得た知識をQC活動に反映することができました。さらに、製造本部では「多能工化」を目標としており、他部署の仕事も経験する中で視野が広がっています。

 社会人になりたての頃は「もっと勉強したかったな」と思った時期もありましたが、今は二十歳を過ぎても勉強ができているので、そういった欲求は満たされています。最初のうちは「他の人がやっているから」という感じで取組んでいましたが、少しずつできるようになってくると、仕事がおもしろくなってきました。単に仕事をこなすのではなく、自分が成長できる環境が、当社の一番の自慢です。


◆ 年齢や役職に関係なく相談しやすい、明るい雰囲気が自慢。
 /技術本部 商品技術部 吉岡祐紀さん(30歳、入社9年目、新潟県長岡市出身)

 私の就職活動中はリーマン・ショックの直後で、厳しい反応を示す県内企業が多かった中、当社だけ堅苦しくない雰囲気がありました。役員面接で社長の遠藤と話してみておもしろい人だと思ったのと、会社全体が明るい雰囲気だったことが決め手となり、大学卒業後に入社して今年で9年目です。今の仕事はパソコンを使って電気回路の設計製図を行う他、お客様のご要望に合わせた選定業務も行っています。

 当社の環境自慢は、年齢や役職に関係なく、何かあればすぐ誰にでも相談できるくらい、コミュニケーションが活発な雰囲気です。ベテランさんに比べて経験も知識も乏しいダメダメな自分ですが、わからないことは先輩方が親身になって教えてくれます。部下の立場でも、部長や課長のような立場の先輩に気軽に相談できたり、逆に先輩方が若手社員の我々に最近の傾向を聞いたりしてくれることが、大規模な企業とは違う雰囲気かもしれませんね。

 それに、設計をする時も現場で実物を確認しながら進めるのですが、現場の人とのコミュニケーションで仕事に関係する情報を得られるだけでなく、気持ちの面でもリフレッシュになり、モチベーションも上がります。若手でも会議で発言権があり、「駄目でもいいから、意見を出しなさい」「気になる資格があれば、試験を受けなさい」「興味があるなら展示会に行ってみなさい」と会社が言ってくれるおかげで、若手であっても萎縮せず、仕事ができる雰囲気がとても大事だと思います。雰囲気って大切だと考えていて、おかげで羽を伸ばしながら仕事をしています(笑)。

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