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2024年 11月 21日 (木)

【オンリーワン企業がオンリーワンたる所以を探る Vol.18】汎用フライス盤で国内トップシェア、「ものづくりの人を育てる機械」で山形から世界へ/エツキ(山形県村山市)社長の早坂幸起さんに聞く 取材・写真・文/大草芳江

2018年04月16日公開

汎用フライス盤で国内トップシェア、
「ものづくりの人を育てる機械」で山形から世界へ。

株式会社エツキ(山形県村山市)
代表取締役社長 早坂 幸起 Koki Hayasaka

公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.18)
 山形県村山市に本社を構える株式会社エツキ(1967年設立、従業員130名、資本金8,640万円)は、各種自動化省力化専用機械や産業機械の設計開発から製作、販売、サービスまでを行う会社である。同社の汎用フライス盤は、高剛性、高精度の信頼性の高さから、毎年開催される「技能五輪全国大会」で大会用機械として採用されている。汎用タイプながらミクロン単位での加工が可能なこのフライス盤の摺合せは、職人の高い感性と、職人技である「キサゲ」によって支えられている。汎用フライス盤を現在日本で製作しているメーカーは数社しかなく、その中でも当社のフライス盤はトップシェアを誇る。そんなオンリーワン企業であるエツキがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の早坂幸起さんに話を聞いた。


オンリーワン企業になるまでの軌跡

― はじめに、貴社がオンリーワン企業と言われる所以と、それに至るまでの軌跡について、教えてください。

◆ 「エツキ」ブランドの機械を世に出したい

 2017年9月に創業50周年を迎えた当社は、私の父である現会長が創業した会社です。約50年前、ここ山形県村山市には大手の疎開工場があり、その工場では職人を養成し、志ある者に独立を推奨していました。父は腕がよいと評判のフライス加工の職人で、この会社で修行した後に独立。最初は自宅敷地内の工場から始まり、その後、高度成長の波に乗り、部品加工のみならず組立等の仕事も始めました。しかしいずれは「エツキ」ブランドの自社製品を世に出したいという想いが強く、試行錯誤しながら様々な製品を開発する中で、現在の当社の主力製品である汎用フライス盤の製造を、はじめは生産委託から始めました。

― そもそも「汎用フライス盤」とは何ですか?

フライス盤は、金属製の工作物を前後・左右・上下に動かし、定位置で回転する刃物(フライス)で金属の加工を行う。

 フライス盤とは旋盤と並んで金属を加工する最も基本的な機械です。昔の製造現場では主力の工作機械でしたが、世の中の流れがNC(Numerical Control:数値制御)化、いわゆる「マシニングセンタ(工作物の取り付けを変えずに、フライス・穴明け・中グリ・ねじたて等、種々の作業ができるNC工作機械)」に取って代わるようになり、フライス盤は製造現場の主流からサブ的な機械になりました。今では、汎用フライス盤を日本で製作しているメーカーは数社しかありません。

 当社もはじめは大手メーカーからの生産委託で汎用フライス盤を生産していたので、「エツキ」の名は表に出ていませんでした。しかし、その取引先が2002年に倒産し、民事再生法で他社に吸収され、新会社は汎用フライス盤の生産をやめてしまいました。創業以来初の経営危機を迎えましたが、当時社長だった父が「フライス盤を何とか当社の名前で売らせてもらえないか」と交渉し、汎用フライス盤の販売権を譲っていただきました。つくる機械は同じですが、2004年から「エツキ」ブランドの機械として製造・販売を開始しました。

 そこで改めて大変さを感じたのが、ものをつくるノウハウとものを売るノウハウは全く異なるということです。我々にとっては、機械をつくるよりも、売る方が非常に大変でした。営業マンを育てたり営業拠点をつくったり、販売後もメンテナンス等、メーカーとしての責任があります。それらを試行錯誤しながら進め、少しずつ認めていただけるようになりました。


◆ 2010年、技能五輪に採用されたことが大きな転機に

2016年11月4日 やまがた技能五輪

 そんな中、2010年に大きな転機が訪れました。我々ものづくりの世界には、「技能五輪」という若手職人のオリンピックのような技能競技大会が毎年開催されています。「フライス盤」と「抜き型」のふたつの競技職種で、当社のフライス盤が選定機械として、2010年に競技用機械に採用され、以来、毎年選定していただいています。技能五輪には、日本を代表するものづくり企業が若手技能者育成のために出場しています。それまで当社の製品は主に全国の工業高校や職業訓練校等といった学校現場向けでしたが、技能五輪をきっかけに、大手企業の教育訓練用機械としても販路が広がりました。

 2016年、初めて山形を会場にした技能五輪全国大会が開催されました。我々としても、何とか地元で技能五輪を開催したいと、陰ながら県に働きかけてきましたので、非常に感慨深いものがありました。まだまだものづくりに関わる人しか知らない大会ですが、やまがた技能五輪では、地元の小中学生や高校生も見学に来てくれました。ものづくりに携わる者として、ものづくりの面白さや可能性を次世代に伝えることができたと思います。


◆ 伝統的な職人技「キサゲ」へのこだわり

― 貴社の汎用フライス盤は、特にどんな点が優れているために、オンリーワンになれたのですか?

 当社がオンリーワンたる所以は、「キサゲ」という伝統的な摺合せの技能にこだわり機械をつくっていることです。大手メーカーが汎用フライス盤をつくらなくなった理由は、製品の需要が大きく減少したこともありますが、非常に手間暇がかかる割には儲からないからです。今でも汎用フライス盤を製造している企業は国内で数社程しかなく、その中でも当社の機械は一番手間をかけていると自負しています。統計資料がないために商社の取扱い台数からの推測にはなりますが、日本で一番多く汎用フライス盤を製造しているのも当社だと思います。

機械加工では不可能なμm(0.001mm)単位の加工精度を実現する職人技のキサゲ。難度が高く熟練が求められる。

キサゲ加工中の金属。金属面の数μm単位の凹凸を職人の手で丁寧に削り平らにしていく。


キサゲ加工には手間暇がかかるが、高精度を長期的に維持するために、フライス盤に必要な技術であるという。

キサゲの模様は、同社のロゴのモチーフになっている。



◆ ものづくりの人を育てる機械

― なぜ「手間暇がかかって儲からない」上に「生産現場で主流でなくなったために他社も撤退した」汎用フライス盤の製造を、貴社は続けようと思ったのですか?

 最初はやはり社内でも汎用フライス盤やキサゲにこだわることに反対の声がありました。生産現場の主力機械でなくなったこともありますし、機械をつくるにも職人を育てるにも手間暇がかかるためです。しかし、当時社長だった現会長がもともとフライス職人で、その機械を使ってものづくりをしてきたという強い思いがありました。フライス盤の製造から撤退するメーカーが多い中、「日本の未来を支える技能者は、こういった機械で育てるのだから、どうしてもこの機械は残さなければいけない」と決断したのです。

 全国の工業高校にも、汎用フライス盤は必ずあります。製造業離れが叫ばれている今日、今の若い人たちにとってものづくりは魅力的な職場ではなくなっているかもしれませんが、それでも「ものづくりが好きだ」という若者がいるので、ものづくりを裏で支えたいという思いで汎用フライス盤を作り続けています。私たちがつくっているのは、「ものづくりの人を育てる機械」なのです。

 また、工作機械の技術がベーシックな分、色々な機械に応用ができますので、工作機械で培った技術を活かしながら技術開発を重ね、現在は、各種産業機械や自動化省力化専用機械の設計・開発から製作、販売、サービスまで一貫して行っています。


◆ 日本のものづくりを海外へ

― 今後については、どのようにお考えですか?

 当社が製造している機械も日本国内だけでなく海外でも使われる割合が増えていますし、我々の取引先も国内のみならず海外に進出しているため、海外にも目を向ける必要があると考えています。

 例えば、日本には「技能検定」という職人の腕を認定する国家資格があり、100以上ある技能検定職種の中にフライス盤職種もあります。そのような日本の技能検定制度が日本のものづくりを影で支えています。日本企業が進出している東南アジア等の発展途上の国々に、政府開発援助の枠組みで技能検定制度が展開されようとしており、当社も協力しているところです。

 使える人間がいなければ、機械は意味がありません。発展途上国では、日本のような職業訓練の仕組みがないので、機械があっても、使える人がいないのです。これまで日本の援助は機械だけを入れてきましたが、同時に人を育てていないために、機械が錆だらけの現状を見てきました。そこで今は機械だけでなく「人づくり、仕組みづくり」へと援助の形が変化しています。ハードとソフトの両面で、日本のみならず海外でも、ものづくりを裏で支えることに当社も貢献していきたいと考えています。


社長が二十歳だった頃

― 次に、早坂さんが二十歳だった頃について、教えてください。

◆ 父から言われた、ふたつのこと

 私が二十歳だった頃は、初めて山形を離れ、横浜で一人暮らしをし、学生時代を楽しんでいた時期です(笑)。二十歳の頃と言えば、当社はまだ創業から20年も経っていない頃でした。「いずれは会社を継ぐのだろうな」という意識は頭の何処かにありながらも、まだ具体的な進路は漠然としていました。

 大学は理系ではなく文系に進みました。周りからもよく「なぜ理系に進まなかったの?」と聞かれます。父からは「製造業だから、理系に進んで技術的な勉強をしてこい」とは言われず、「自分(父)が苦手な分野を勉強してこい」と言われました。「では無理をして苦手な理系に進まなくてもよいのだな」と私は都合よく解釈しまして(笑)、商学部に進みました。簿記や経営管理等を学び、会社経営の面で勉強になりました。父からはもうひとつ、「大学4年間で多くの人と知り合い、色々な人との付き合い方を勉強してこい」と言われたので、部活やサークル、バイトも含めて色々な人と出会うことを意識し、色々なことを教えてもらいました。

 初めて家を離れて、改めて故郷のよさも感じました。例えば、四季がはっきりしていて、夏は暑くて冬は雪が多いのも、住んでいる時は「こんなところ嫌だな」と思っていましたが(笑)、人間、生活していく上でのメリハリは大事だと思いましたね。食べ物も旨いですし。それに、山形は人もいいと思います、素朴でおっとりしていて。お金で買えないものがあるところが、地元のよさだと思いました。


◆ 人から聞いて初めて知った、経営者としての父の偉大さ

 私が一人暮らしをしていた場所の近くに、取引先企業(油圧機器メーカーの株式会社アールテーアール)があり、たまに父が出張で来た時、その社長さんとの食事会に私も一緒に連れて行ってもらいました。以来、その社長さんからは色々と面倒をみてもらい、「お前の親父はすごい人だ」とよく聞かされました。

 ちょうど父が創業した昭和40年代前後は、高度成長の波に乗り、起業する人が多かった時代だったそうです。腕のよい職人の独立を支援する機運が高かった時代で、父が勤めていた会社にも暖簾分けの制度があったそうですよ。そのため、独立して自分の会社をつくった職人は多かったそうですが、腕がよいからといって、必ずしも経営者として成功するとは、限りません。人を育てられる職人がなかなか多くはなかった中、父はどんどん人を増やし、次から次へと新しい事業を展開しました。「職人気質と経営手腕を併せ持つ人は、なかなかいない」という取引先の社長さんの話から、初めて経営者としての父の凄さを意識しました。それまでは漠然と「後を継がなければいけないな」と思っていましたが、「そんな想いで会社をつくった親父の後をしっかりと継がなければいけない」という気持ちが固まりました。それが、私が二十歳だった頃です。

 その取引先の社長さんには、その後も、色々な形で面倒をみてもらいました。当時は全く考えていなかったことですが、2016年、後継者がいないということで、その会社を当社で引き受けてグループ会社としました。今振り返ると、二十歳の頃、そんなこともあったなと思いますね(笑)。


◆ 社長就任直後にリーマンショック

― その後、どのような形で山形に戻ったのですか?

 ものづくりはアルバイト程度の経験しかなかったので、きちんとものづくりを勉強してから山形に戻っても遅くないという気持ちがあり、卒業後は、取引先の大手機械メーカーで約5年修行させてもらってから山形に戻りました。戻ってから数年間は、工場でものづくりをしたり営業をしたり、色々な下積みの仕事をさせていただきました。ものづくりは父が現役でやっていたので、自分は大学で勉強した経理や人事、労務関係等、経営管理的な仕事を主にやったような気がします。

― 社長就任はどのようなタイミングだったのですか?

 2007年7月に私が社長に就任して、今年で12年目です。その頃はリーマンショックの直前で、世の中の業績がよかった時でした。会長の想いとしては、仕事が最も安定している一番よい時期に社長を譲る考えだったと思います。ところが、社長就任から約1年後、2008年9月のリーマンショックで売上が激減し、創業以来最大の危機を迎えたので、私は社長になってからはずっと大変だったという思いしかないですね(笑)。ここ2、3年で、やっと落ち着きました。本当に大変でしたが、今になって考えれば、悪い時に社長になってよかったと思います。

― どのようにして苦境を乗り越えたのですか?

 先程もお話させていただいたように、2010年、技能五輪の競技用機械に当社のフライス盤が採用されました。一番大変だった時期、久々の朗報に社員の士気も高まり、営業的にも自社の技術力を強力にアピールする好材料となりました。その2010年が大きな転機となり、それをきっかけに色々な仕事につながっていき、おかげさまで2014年には業績がV字回復しました。苦しい時でも、「売れない機械を作っても仕方がないのではないか」という反対があった中でも、それでも諦めず、自社製品の開発と地道な営業活動を続けてきた結果だと思います。


我が社の環境自慢

― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。

◆ ここ山形だからこそ、つくれるものがある

 我が社の環境自慢は、この山形という地域です。「こんな雪深くて不便なところで、なぜものづくりをしているの?」とよく言われます。全国各地にいるお客様からすれば、「ここに来るのも大変だ」と言われるくらい、交通の便もよいわけではないですが、ものをつくる環境としては非常に恵まれている地域で、ここ山形だからこそ、つくれるものがあります。

 なぜかと言うと、まずひとつ目は、東北の人間に共通する点として、決して口は達者ではありませんが、真面目にコツコツと取り組み、ものをつくらせれば誰にも負けない、という風土が残っていることです。当社にも真面目にコツコツとものをつくる社員が多くいます。昔は、冬の農閑期になると出稼ぎに出る必要があり、それが嫌で企業を誘致した地域なので、冬に出稼ぎに行かなくても仕事ができることはよいという風土が、便利さから離れた地域だからこそ残っているのです。

 もうひとつは、ものをつくるために必要な仲間が山形には揃っていることです。例えば、鋳物は機械をつくるベースとなる素材ですが、もともと戦国時代の頃から、この地域は鉄器作りが盛んで、それが発展して鋳物をつくる土壌がありました。また、山形はミシン製造が盛んで、その部品を加工したりめっきをしたり熱処理をしたりと、半径30km圏内で、ある程度のものづくりができるベースがこの地域にはあります。ですから父も、この地域でなければ、ものづくりの仕事ができなかったと思います。

 一見、恵まれていないようにも見えますが、ここ山形は、ものづくりに恵まれている地域なのです。ただ、引っ込み思案の気質があるので、商売には向いていない地域ですが(笑)、この山形の地で世界と戦えるものづくりをやりたい、そう思っています。


若者へのメッセージ

― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へのメッセージをお願いします。

◆ 縁あって出会った仕事を大切にして欲しい

 誰もが皆、将来の夢を持ち、実現にむけた努力をしていると思いますが、ほとんどの人は、人生、自分の思った通りにはならないものです。たとえ「自分がなりたかった仕事」に出会えなかったとしても、縁あって出会った会社や仕事を大事にしてもらいたいです。夢を追いかけることは悪いことではないですが、出会った仕事を好きになって頑張れば、その仕事が「自分がなりたかった仕事」になるのではないかと思います。

― 早坂さん、本日はありがとうございました。


我が社の環境自慢

◆ 高評価のフライス盤を自らの手で生み出す誇り
 /小関誠さん(33歳、入社13年目、山形県尾花沢市出身)

 短大生の頃にインターンシップ生として当社から受け入れていただいた時、「でかいものをやっていて、おもしろそうだな」と興味が湧いて、当社に入社して今年で13年目です。現在、自社のフライス盤の精度を出すための「キサゲ」作業を担当しています。

 もともと私はものづくりに興味があり、工業高校、工業系の短大を卒業しています。母校も含めて、全国の工業系学校から高く評価されている自社フライス盤を、自らの手で直に生み出していることが、一番の自慢ですね。

 50年続いてきた会社は全国的にも決して多くないと思います。これから先、自分たちの世代が中心になった時、その一翼をきちんと担えるよう、伝統的な匠の技を磨きつつ、時代の流れにも対応できるよう、これからも精進していきたいです。


◆ 若い世代に技術を伝えていく循環が自慢
 /後藤喜文さん(31歳、入社13年目、山形県村山市出身)

 中学生の頃に工場見学で当社を訪れた時、当時の社長(現会長)が工場を案内してくれました。よくわからないながらも、社長の話に「すごい」と感動し、また加工現場に大きな機械がずらりと並ぶ光景に「すごい」と感激して、当社に入社し今年で13年目です。現在は、機械課で金属加工の仕事をしています。自社フライス盤の大型部品の他にも、お客様からいただいた部品の加工も担当しています。

 我が社の環境自慢は、年齢や役職に関係なく、コミュニケーションが取れている現場です。私も新人だった頃、皆、自分の仕事が忙しいにも関わらず、手取り足取り仕事を教えてくれました。自分が教わった分、私も若い世代に教えていくつもりです。そんな恩返しの繰り返しができている現場だと思います。

 また、当社のフライス盤が全国の工業高校等に知られていることも嬉しいことですし、地元の人に「エツキで働いています」と言うと、大抵の人が「エツキか。よいところで働いているね」と知っていただいていることが本当に嬉しいです。エツキの社員として、恥ずかしくない言動を取らなければいけないと身が引き締まる思いです。

 これから当社は、日本国内のみならず海外にも展開していきます。世界にも目を向けて、ますます当社が発展できるよう、自分も尽力していきたいです。

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