取材・写真・文/大草芳江
2018年03月05日公開
超ハイエンドな技術ニーズに応え続け、
超精密基板の外観検査装置で世界トップレベル
インスペック株式会社(秋田県仙北市)
代表取締役社長 菅原 雅史 Masashi Sugawara
公益財団法人東北活性化研究センター『"キラリ"東北・新潟のオンリーワン企業』Collaboration連載企画 (Vol.12)
秋田県仙北市に本社を構えるインスペック株式会社(1988年設立、従業員46名、資本金8億1,112万円、東証第二部)は、半導体パッケージ基板を始めとする精密プリント基板を、画像処理技術で自動的に検査する装置を開発・製造する研究開発型メーカーである。画像処理技術、メカトロニクス技術、光学センシング技術という外観検査の三大要素技術すべてを社内に有しており、高速高解像度画像処理技術は、精密基板検査分野において世界トップのレベルにある。多くの技術蓄積とノウハウの裏づけから、オリジナルのハードウエア及びソフトウエアを開発している。特にCPU向け等の超精密基板等を対象とした、ハイエンドのスペックを持つ検査装置を得意とする。2014年10月、青森県弘前市に子会社を設立し、医療関連機器事業を開始。また、2015年4月にはスイスのプリント基板製造装置メーカーを子会社化し、事業展開している。2006年 経済産業省「元気なモノ作り中小企業300社」選定、2007年「第7回アントレプレナー・オブ・ザ・イヤ―JAPAN」において菅原雅史代表取締役社長が日本大会ファイナリスト7名のうちの1名として選出、2008年 経済産業省「IT経営力大賞」の「東北IT経営実践ベストモデル賞」認定。そんなオンリーワン企業であるインスペックがオンリーワンたる所以を探るべく、代表取締役社長の菅原雅史さんに話を聞いた。
オンリーワン企業になるまでの軌跡
― はじめに、貴社がオンリーワンと言われる所以を教えてください。
◆ 超ハイエンドの光学式外観検査でグローバルニッチトップ
精密基板用外観検査装置
当社は、半導体パッケージ基板等の超精密プリント基板を検査する装置を製造しているメーカーです。プリント基板と言えば、一般的にはマザーボード等をイメージされると思いますが、半導体パッケージ基板は半導体チップを乗せるような超精密なプリント基板です。その中でも特に精密な、コンピュータの頭脳にあたるCPU向けの超精密プリント基板等に当社はフォーカスし、ハイエンドスペックな光学式外観検査装置を製造・販売しています。
お客様の求めるレベルは自ずと精密になりますので、一般的な基板を検査する精密度では検査ができません。そこでお客様が要求する精密度を実現するカメラやレンズ、コンピュータのソフトを自社開発し、検査のシステムを構築しています。技術的にはハードルが高く、その開発には手間暇も費用もかかるため、市場規模はそれほど大きくはないですが、競争はあまり激しくない分野です。
スマートフォンやウェアラブルデバイス等に使われるフレキシブルプリント回路基板(薄く柔らかいフィルム状の回路基板)を検査するためのロール to ロール 外観検査装置。
基板の市場は、検査不要のローエンド、検査が必要で最も価格競争が激しいミドルレンジ、当社の装置でなければ検査できないハイエンドの3つに分類できます。微細なほど、またフレキシブルなほど、技術的な難易度が高まります。ミドルレンジの市場が数百億円から数千億円近い規模であるのに対し、当社がターゲットにするハイエンドの市場規模は数十億円程度のニッチな市場です。
お客様も常に新製品を手掛けていますから、「新製品の開発時には足並みを揃えて一緒に開発して欲しい」と期待いただき、我々もその期待に応える形でお客様と一緒に進化し続けてきました。その分野で最先端の最も難しい要求レベルに常に応え続けることを基本方針とし、その基本方針をお客様から評価いただいてきた結果、「オンリーワン」という言葉が、ぴったりかはわかりませんが、それに近い形でビジネスを展開してきました。今後、半導体のレベルがさらに進化すると、超ハイエンドな技術ニーズは急拡大していくでしょう。AIやIoT、ビックデータ等に使われる半導体がそれで、まさに今それが起こりつつあります。
― そこに至るまでの軌跡を教えてください。
◆ メーカーになる夢を抱き、下請けからのスタート
会社自体は私が29歳の頃、1984年に創業しました。ちょうどその数年前、米国でマイクロソフト(1975年~)やアップルコンピュータ(1976年~)などの新しくて有望な会社が伸びて話題になっていた頃です。当時はインターネットもなければ、パーソナルコンピュータもアップルコンピュータが世に出したばかりの頃でした。私は秋田県で起業することになり、その分野にも興味があったのですが、「この田舎では無理だ。ならば、ものづくりのメーカーとして生きていける会社になりたい。会社をつくる以上は大きくなりたい」と思いました。当時、ものづくりで世界に冠たる企業といえば日立製作所をイメージして、社名を「太洋製作所」としました(その後、画数がよくないことに気づき、社名を「大洋製作所」に変えています)。「いつかはメーカーになりたい」という想いを胸に、1984年から1995年までの11年間は下請けの仕事をしていました。
起業から約3年間は、ちょうどフロッピーディスクドライブが世に出た頃で、大手電機メーカーから磁気ヘッド関係の下請けの仕事をもらいました。ところが、その会社はお役所よりも役所的な会社でして、我々が創意工夫をして「コストは下がり、品質は上がる」提案をしても、返事をもらうだけでも2ヶ月以上かかり、その上「勝手に工程を変えてはいけない。言われたことをやりなさい」と言われました。
「このままでは将来性もないなぁ」と思っていた時、宮城県にあったソニーの子会社「プレシジョンマグネ(株)」から「磁気ヘッドを組立てて欲しい」という話がありました。当時はまだ「ソニー」の名が付いていない子会社で、地元からは「よく知らない会社だから、やめておけ」と言われました。けれども、小さな頃からソニーに対してよいイメージがあったので仕事を受けたところ、下請けながら非常によい仕事でした。我々が創意工夫して今で言う簡単なロボットを自分たちでつくり、何百人分の工程をロボットに置き換えてコストダウンを提案すると、現場の担当者が「いいね」と即断即決してくれ、さらにそのロボットをソニーが海外で使いたいと、大量に買ってくれたりしました。当社の業績もよく、ピーク時には120人の社員を抱えていました。今でも本社の隣に古い工場が残っていますが、ソニーの仕事を下請けしていた頃の工場です。
◆ 下請けの仕事がすべてなくなり、メーカーとして再出発を決断
ところが1995年、それらの仕事をすべてソニー本体の工場で行うことになり、社員120人分の仕事がすべて半年間という猶予期間でなくなるという、大変な局面に遭遇しました。社員120人の雇用を維持できるよう、日本各地で様々な会社を訪問し下請けとしての仕事を求めましたが、ソニーの時のような仕事はなかなかありませんでした。
非常に悩みましたが、その時に思い切って、下請けの仕事をしながら少しずつ培ってきた技術を本業にしよう。その時に、下請けをやりながら「いつかメーカーになりたい」という目標を持っていたじゃないか、ということに思い当たりまして、思い切ってメーカーとしての再出発を決断しました。そして、ほとんどの社員は再就職を斡旋し、その年の暮れまでに社員を40人、翌年1996年には29人まで、一人も問題を起こさず削減しました。そして、検査装置メーカーとしての再スタートを切ったわけです。その時、「生まれ変わる」という気持ちの切り替えがうまくできていなければ、早々に諦めて、別のことをやっていたかもしれません。幸いにして、ソニーの下請けをしていた時に培った技術の経験を、結果として非常にうまく活かすことができました。
◆ 最も難しい技術レベルの要求に応え続ける基本方針で差別化を図る
― メーカーとして、どのような事業を展開していこうと考えたのですか?
メーカーとしてどのような事業をするか、色々な人に相談したり、悩んだりしたのですが、長期的に伸びていく分野として、半導体分野で事業を展開したいと考えました。我々に何ができるだろうと色々模索していた時、当時、「半導体のリードフレーム(IC等の半導体パッケージに使われ、半導体チップを支持固定し、外部配線との接続をする部品のこと)の検査に非常に人手がかかって困っている」と仰っていたお客様がいて、お話をよく聞いてみると、検査装置を切望していることがわかりました。そこで、技術的なハードルは大変高いですが、その検査装置を開発できれば大きな可能性があると考え、1996年から開発を始め、約1年で第1号モデルの検査装置をつくりあげました。
その時、それまで全く関わりのなかった業種から半導体分野に新規参入したものですから、何かひとつ大きな特徴を持った製品にしなければ、お客様から評価いただけないだろうと考えました。そこで、「最も精密な検査ができるシステム」という基本方針で開発を進め、他社との差別化を図ったのです。具体的には、画素数が非常に多いカメラと、当時はまだ日本で採用されていなかった専用の画像処理ボードを用いながら、2000年頃までそのような形で開発を進めました。
◆ 運命の出会いで、精密基板検査分野で世界トップの画像処理技術を確立
― 下請けの仕事をしていた時に培った技術はどのように活かされたのですか?
独自のアルゴリズムをベースとした画像処理システムと、最適化された照明システムにより、世界トップレベルの検査性能を発揮する。
精密基板検査の心臓部は、画像処理システムです。我々がソニーの下請け時に学んだことは、精密な機械装置と画像処理でどのようなことができるかでした。ただ、ハイエンドスペックの画像処理システムを我々自身で開発できるようになったのは、2000年まで画像処理ボード開発元のカナダのメーカーと協力関係を結んだことに加えて、2000年から非常に高い技術力を持つエンジニアが入社したことが大きかったと思います。彼の貢献によって、画像処理技術による検査システム分野で、世界最高性能の装置を常に提供できる開発力を獲得することができました。
彼は私と似たところがあって、小学生の頃から電気好きで、近所の人がラジオやテレビが壊れると、小中学生の彼のところに「修理してくれ」と持ってくるほど詳しかったそうです。大学でも電子工学を専攻し、当社に入社する前は別のベンチャー企業に在籍していました。彼と出会ったきっかけは、ある展示会で彼が一人で開発した高精度な画像処理システムを知り、当社の検査装置にぜひ使いたいと問い合わせたことでした。その後、彼のいた企業が別分野へ事業戦略を切り替えたこともあり、彼が「ずっと画像処理分野をやりたい」と言うので、「では、一緒にやろう」と当社に加わったという経緯です。まさに"ぴったり"でした。
彼が入社する前は、カナダのメーカーとも非常によい関係を結んでいましたが、外部の力を頼りにする形でした。彼が加わったことで、自社の技術になったのです。彼が新しい技術を開発する過程で、優秀な若手エンジニアも入社して力をつけ、今日では若手エンジニアがしっかりと彼の技術を継承し、引き続き同じ戦略でハイエンドの画像処理システムを開発できるようになりました。特に30代のエンジニアの層が厚く、現在は彼らが開発の中心を担っています。
◆ 新しい製品やサービスの開発で、より力強い会社へ
― 今後の展望については、どのようにお考えですか?
もう一回り大きな会社になれると思っています。今の時代、単純に規模が大きければよいというものではありませんが、質的に"強い会社"になるためには、ある程度の規模はどうしても必要です。そのために、これまで検査装置のメーカーとして蓄積してきた技術やノウハウ、ネットワーク等を活用して、検査装置以外にも、事業の力強い柱になるような新しい製品やサービスを少しずつ増やしていきたいと考えています。特に、検査装置とAIの技術の親和性は高いので、積極的に取り組むことで新たなサービスを提供できる可能性があり、すでに手は打ってあります。
社長が二十歳だった頃
― 次に、菅原さんが二十歳だった頃について教えてください。
◆ 「自主独立」の精神を培った高専の5年間
私は秋田工業高等専門学校の出身で、二十歳はちょうど高専を卒業した年です。小学生の頃から機械や電気が大好きでした。小学5年生の時にはオートバイのエンジンがなぜ回るかを完璧に理解していたほどで、よくクズ鉄屋から真空管を集めては、自分ではんだ付けをしてラジオを作ったりしていました。ですから本当は高専の電気学科に入りたかったのですが、残念ながら成績が悪く、第二志望の土木工学科に入りました。今振り返ってみれば、高専に入学した15歳から25歳頃にかけての経験が、その後の人生を形作っていることは間違いありません。
私は秋田高専に土木工学科が新設された年に入学したので、土木工学科の第一期生でした。秋田県全域や隣県から入学するため、学生寮に入る学生も多く、私もその一人でした。高専では年1回、学科対抗の大運動会が開催されたのですが、我々以外の3学科は1年生から5年生まで全学年揃っているのに対し、我々土木工学科は1年生しかいませんでした。それが「我々は土木工学科の第一期生だ。わずか40人で他学科と対抗するのだ」という団結心と自立心を育んだ環境だったと思います。
人生で一番本を読んだのもこの頃でした。高専4年生の時、友人と読書競争をしまして、1年間に240冊、乱読しましたね(笑)。きちんと勉強もして本も読む仲間たちと、感受性旺盛な15歳から20歳までの5年間、切磋琢磨して過ごした経験は、私自身の根底に大きく影響していると思います。私は29歳で起業してから今年で34年になりますが、これまで一貫して拘ってきた「自主独立」は、まさにこの頃、その基盤が醸成されたと思うのです。
さらに遡れば、私が5歳の頃に父親が亡くなり、私と当時0歳の弟を母親が女手ひとつで育ててくれました。母親からはずっと「お父さんがお前には好きなことをやらせるんだと、ずっと言っていたから、お前は好きなことをやりなさい」と言われてきた記憶があります。「自主独立」に拘る理由の根本には、その記憶があるのかもしれません。
◆ フランス文学にのめり込み森永乳業を退社
二十歳で高専を卒業した後は、東京にある森永乳業に入社しました。実は、学生の頃から本や音楽が大好きで、密かに音楽家を志していました。フランス音楽への没頭をきっかけに、社会人になってからフランス文学に強い関心を持ち、22歳の時、フランス語を学ぶために東京のアテネ・フランセの一番難しいコースに入りました。そちらの方が忙しくなりまして(笑)、森永乳業を退社し、丸一年、人生の中で一番勉強しました。
途中で音楽の道は才能がないと諦めましたが、そんな経緯でフランス語をマスターしたので、せっかくなら活かそうと思い、中東の石油プラント会社で、フランス語圏で従業員を募集している会社を何社か受けました。どの会社も三次面接まではいけるのですが、最後に「荒くれ者ばかりいるスラングだらけの現場で、きちんとした言葉ができるだけでは、仕事は務まらない。そのレベルではノイローゼになる」と言われ、落ちてしまいました。
さて、森永乳業も辞めてしまったし、これからどうしようかと考えました。そこで、地元に戻って自分の得意なことをやれないかなと、秋田に帰ってきたわけです。ですから、格好いいものではなく、ある意味では、やろうと思ったことができなくて、地元に帰ってきたというところがありました。
◆ 色々な経験をしたことが後から必ず役に立つ
― その後、どのような経緯で、会社を設立することになったのですか?
どうせ再就職するなら、自分の好きな電気系や機械系の会社に入りたいと思っていたのですが、秋田の田舎にそんな会社はほとんどありませんでした。さぁどうしようとなった時、秋田県の企業誘致斡旋事業担当の方が「電子部品を作っている誘致企業が、下請けを探している。やってみないか」と仕事を紹介してくれたのです。いずれは自分の会社を設立しようと自分で決めた時期でしたし、自分が好きだった分野につながる可能性がある話でした。それに先程もお話したように、アップルやマイクロソフトが話題になっていた時代でしたから、自分もそんな会社になれるようチャレンジしたいと思い、29歳で起業しました。
― それで先程のお話とつながるわけですね。現在の仕事と分野的には異なることに強い興味を持って没頭したことは、今振り返ってみると、今の菅原さんとどのようにつながっていると思いますか?
冒頭にお話したように、自分にはこの技術の分野が合っていたと思います。創業時には、機械の設計から製造まですべて自分でやりました。今は社長という立場になると、大企業のトップや役員の方と話す機会も多いですが、若い頃に音楽や文学等、色々なことに没頭したおかげで、物怖じせずに話もつなげられますし、場合によっては話が盛り上がり、そこから付き合いが深まったことも事実ありました。色々な経験をしたことは、必ず大きく役に立つと肌身で感じています。
論理的に説明できるわけではありませんが、今まで30年以上も会社を経営してきた中で、「明日はもう駄目になるかもしれない」という大変苦しい時期を3、4回経験しています。そんな時、色々な形で頭の中に入っている色々な人達の経験が自分の心の支えとなり、それがあるために、どんなことがあっても「それを乗り越える何かが必ずあるはずだ」と諦めず、折れない心につながっていると感じます。そしてどうにか切り抜けてきた自分の経験自体が今度は自分自身を支えてくれます。逆に「あの時、自分はやれたじゃないか」という経験が全くないまま順調に来た会社には、脆い部分があるのではないかと思うのです。
我が社の環境自慢
― 続けて、貴社の環境自慢を教えてください。
◆ ローカルで最先端の事業を行う企業
非常にローカルな場所で最先端の事業を行っていることが、特に地元出身のエンジニアの雇用の場として、魅力のある企業になれたらいいなと思っています。地元、あるいは地元を出て大都市圏に就職した後に秋田に戻る人たちの多くは当社を見るので、ひとつの決断になりうるのかなと考えています。
◆ 自立したメーカーとして、すべて自分たちの意思で決められる
当社に限った話ではありませんが、自立したメーカーであるということは、すべて自分たちで決められるということです。自分たちがどこに向かうか、何をやるか、すべてのことについて、誰かの意思に沿わなければいけないということは全くありません。もちろん、その結果の責任はすべて自分たちが負いますが、それが自主独立であることの一番の価値だと思います。ある企業のトップも「自分の運命は自分で決めなさい。さもなければ他人に自分の運命を決められてしまう」と言っています。「世の中の大半の人が気づかぬうちに自分の人生を誰かに決められているが、自分の人生は自分で決めなさい」という意味です。それは会社にとっても全く当てはまることだと思います。
◆ 素直な人が多い
素直な社員が多い社風も自慢です。
◆ 会社の定着率がよい
会社の定着率もとてもよいです。当社を辞めても、当社で培った能力を活かせる会社は他にあまり多くないので、「他社に移るから」という理由で当社を辞める人はほぼいません。
私は、創業時から、色眼鏡で人の評価をしないことを徹底して心掛けてきました。ただ、社員から見て魅力的な会社かどうか、働き方改革や物理的な環境整備等、色々な改善が必要だと思いますので、これからも環境整備を積極的に進めていきたいと思います。
若い世代へのメッセージ
― 最後に、今までのお話を踏まえて、若い世代へのメッセージをお願いします。
◆ 自分の人生は自分でデザインして自分で作り上げて
今の時代は間違いなくチャンスに溢れています。自動運転だって、つい最近までは想像ができなかった技術が実現されつつありますし、あらゆるものがインターネットにつながり、AIも登場し、そこからどんなサービスが生まれるか、無限の可能性があるでしょう。今の若い人たちは生まれたときからデジタルに触れ、物心が付いた頃からスマホを扱っているので、そこから新しいアイディアが生まれる可能性がたくさんあると思います。私の創業時に比べてチャンスが非常に増えていると思いますし、その挑戦を支援する制度も増えています。ぜひ大きな夢と目標を持ち、失敗を恐れず、自分の人生を大きくするチャレンジをしてください。それを誰かに言われてからやるのではなく、自分の人生は自分でデザインして自分で作り上げてください。そうすれば人生、後悔はないはずです。
― 菅原さん、ありがとうございました。
社員に聞く、我が社の環境自慢
◆ 秋田にありながら、国内外から高く評価される企業
/藤井豊さん (33歳、入社8年目、秋田県大仙市出身)
関東の大学に進学しましたが、いずれは秋田に戻ってきたいと考えていました。県外で一度就職してしまうと秋田で就職することが難しくなると考え、思い切って新卒から秋田で就職活動をする中、当社に巡り合いました。工学部で学んだ知識を活かして、ものづくりに関わる仕事がしたいとの想いから当社に入社して8年目です。現在は技術開発課の係長として、主に装置の電気設計、装置で使用する機器の調査・選定、仕上がった装置の動作確認等の作業を担当しています。
我が社の環境自慢は、秋田に本社を置きながらも、国内のみならず海外にも事業展開し、国内外のユーザー様から高く評価いただけているところです。また、我々若手エンジニアが手を挙げると積極的に任せてくれる環境も自慢です。我々若手がどんどん先輩方の技能を吸収して、他社の追従を許さないくらい今後も頑張っていきたいです。ぜひ若い皆さんにも入社いただき、益々活気ある会社に一緒にしていきましょう。
◆ 少数精鋭でダイレクトかつフラットにコミュニケーションがとれる環境が自慢
/高橋達さん(32歳、入社9年目、秋田県秋田市出身)
私も県外の大学に進学し、いずれは秋田に戻ることが確定していたので、県内企業も視野に入れて就職活動をしていました。そんな中、自分の大学から入社した先輩がおり、国内外で豊富な経験も積める当社に魅力を感じて入社し今年9年目です。現在は機械の設計を担当しています。
我が社の環境自慢は、少人数のため、コミュニケーションが非常に円滑ということです。ものづくりをする中で製造からダイレクトに率直な意見を聞くことができるので、すぐに対応ができますし、上司とも壁なくコミュニケーションがとれるので、仕事がやりやすいと感じています。まだまだ勉強中の身ですが、自分自身のスキルをさらに向上させ、ひいては当社製品の品質を向上させることに貢献していきたいです。
◆ 自分の貢献が会社の売上に直結するやりがいを感じられる
/宮越徹さん(37歳、入社2年目、秋田県仙北市出身)
県外の大学を卒業後、一度は東京に出ようと考え、都内のデジタルカメラの会社で11年間勤務しました。いずれは秋田に戻りたいと考えていたので、地元で有名な当社のことは知っていました。そんな中、たまたま菅原社長と出会い、また秋田に戻れるチャンスにも恵まれて、当社に受け入れてもらい今年で2年目です。
当社に入社してからは、生活する環境が大きく変わりました。都内の平均的な通勤時間は往復2時間ですが、ここではまず車通勤ができる上に、移動時間も数分レベルで、ストレスのかかり方が全く違います。そこがもう環境として最高ですね(笑)。また、他の皆も言う通り、秋田にある小さな企業ながら、日本全国のみならず海外のお客様とも取引できる企業であることも自慢です。それに、自分の貢献が売上に直結する規模の会社であることは、我々社員にとってのモチベーションにもなるので、優位性を示せるものになると思います。
現在は、当社として新たな価値を付加できる分野の調査から実装まで、先行開発的な仕事を担当しています。今研究していることをできるだけ早く製品化につなげ、当社のPRポイントにできるよう、これからも開発を進めていきたいです。
コラボレーション
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