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2024年 11月 21日 (木)

地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)に聞く:科学って、そもそもなんだろう? 取材・写真・文/大草芳江

2013年1月15日公開

好奇心と想像力は人間の特権

蟹澤 聰史 Satoshi Kanisawa
(東北大学名誉教授)

1936年(昭和11年)信州伊那谷生まれ。高校時代までは中央アルプスと南アルプスをみながら育つ。東北大学理学部に入学以来、仙台が第二のふるさと。地質学に興味を持ち、北上山地や阿武隈山地をフィールドとし、なかでも、岩石や鉱物の化学組成を調べることに熱中してきた。そのうちに、日本列島のような島弧と、古い大陸地域の花崗岩類との比較に興味を持ち、北米、北欧や中国大陸の岩石にも出逢った。長年教養部で指導したため、一つの専門に拘らずに、様々な異分野の先生と交流してきた。それが考え方を柔軟にするのに役立ち、定年後の執筆活動の宝となった。この数年、地学の面白さを伝えようと、『文学を旅する地質学』『石と人間の歴史』『おくのほそ道を科学する』などを上梓している。

一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。 
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が
それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


「好奇心と想像力は人間の特性」と語る地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)は、
好奇心のおもむくままに、想像をたくましくして、定年退官後の現在も、
50年以上専門にしてきた地質学と、昔好きだった文学とのつながりを探して、本にしている。

地学のスケールで見れば、何気ない足元の石からも、ダイナミックな地球が見えてくる。
一方で、地球のスケールで見るからこそ、「不易流行も無用之用も俳諧のみならず」と、
現状への憂いを語る。そんな蟹澤さんがリアルに感じる科学とはそもそも何かを聞いた。


<目次>
好奇心のおもむくままに
自由に自分のしたいことをさせてくれた
地学大好きでまっしぐら、というわけではない
不易流行も無用之用も俳諧のみならず
もし1億年後の生物が地層を見たら
昔の人の想像力を見習う
あてがいぶちで、創意工夫は生まれない
科学とは人間の本性
好奇心と想像力は人間の特権


地質学者の蟹澤聰史さん(東北大学名誉教授)に聞く



好奇心のおもむくままに

―蟹澤さんがリアルに感じる科学って、そもそも何ですか?

 うーん、難しい質問ですが、科学は、"好奇心"ではないですかね。小さな子どもは何でも興味を持ちます。「三つ子の魂百まで」と言うけれど、やっぱり好奇心が大事だと思うのです。

 幼い頃、ネジを巻いて動く、ゼンマイ仕掛けのおもちゃがありました。それを動かして遊ぶだけでは飽き足らず、「どうして動くのだろう?」って、いくつも壊したなぁ。お土産におもちゃをもらっても、全部バラバラにしていましたね。

 僕の田舎は長野県でね。昼間は電気が来なかったなぁ。だからかな、蓄電池がいっぱいありました。蓄電池でラジオを聞くような、ちょっとモダンっぽい生活をしてたようです。そういうガラクタが、いっぱいありました。それを片っ端から壊した記憶があります。

 田舎ですから、鯉を飼ったりする溜池がありました。池の底に溜まったメタンガスがプクプク泡だっているのですよ。おもしろいなと思っていたら、どうも「メタンガスは燃える」らしいと、『子どもの科学』か何かで覚えたのかもしれません。じゃあ、本当に燃えるのかな?と思いまして。やっぱり自分でやってみないとね。

 「水上置換」って、化学で勉強するでしょう?自分で、そういうのに気づいたのかなぁ。家にあった一升瓶を逆さにして水を入れて、醤油などを入れ替えるための漏斗(じょうご)を使ってそこにブクブク泡を入れ、火をつけたら、本当にぼうぼうと燃えたのですよ。池の底からプクプク出てきたものが燃えるとは。あれは本当におもしろかったですね。でも、大人になってから考えたら、もし「爆鳴気」の割合で空気が混ざってしまったら大けがをしたかもしれないと、何もなくて良かったです。

 あとは、まだ僕が小学校に入る前の頃かな。父親から、軍隊で使う大きな双眼鏡で、お月様を見せてもらったことがあるんですよ。月はボツボツでね、すごく大きく見えたの、よく覚えています。そして大きくなってから、今度は「望遠鏡をつくってみたいなぁ」という気になりました。あまり良いレンズではありませんでしたが、金星が三日月になるとか、木星の衛星が4つなのも見えましたし、土星の輪もなんとなく見えて。そんなことばっかり、やっていましたね。


自由に自分のしたいことをさせてくれた

 僕が小学校に入ったのは昭和18年、戦争中でした。小学校(当時は「国民学校」といった)3年生の時、戦争が終わりました。終戦後のどさくさに育った私ですが、それにしては先生方に恵まれていたと思います。ただ戦時教育は別でね、「君たちは天皇陛下のために死ね」とか「欲しがりません、勝つまでは」とかでした。終戦後は、教育方針がまるっきし変わったのです。その時は、大人の変わり身の早いのにびっくりしました。8月15日を境にして、価値観が180度変わってしまったのですからね。

  小学校5・6年生の担任は理科好きな先生でした。先生は古い『子どもの科学』を山ほど教室に持ち込んで、「自由に家に持って帰って読んでよい」と言ってくれました。音楽と体操は苦手でいつも下ばかり向いていた私ですが、それからですよ、いろいろなことを知り始めたのは。

 田舎の小学校・中学校でしたが、どういうわけか、ものすごくたくさんの理科の実験機器がありました。今からみれば、古典的なライデン瓶とかウィムズ・ハーストの起電機、それにいろんな試薬などです。信州の田舎でしたが、私の育った村は幕府の直轄地(天領)だったせいか、田舎にしては学者の多い村だったようです。だから小学校に先輩方がいろんな器具を寄付したのではないかと、想像しています。

 それらを先生方がフルに利用させて、自由に使わせてくれたこともありました。起電機に電気を溜め込んでから、クラス全員に手をつながせて、ビリッと感電させたり、フェノルフタレインをアンモニア水に垂らして、水を真っ赤にさせたり、まるで手品をみているようにおもしろかったです。

 もう一つ、私の父親は、長男が早世したため、末子だったのに家業の地主を継がなければならなくなり、学問をやりたかったのに、大学まで行ってから家に戻ったこともあって、「子どもたちには自由に自分のしたいことをさせなさい」との遺言を残して、レイテ島で戦死しました。母は忠実にこれを守って、好きなようにさせてくれたのです。

【写真1】中学校卒業式。中央が蟹澤さん。後方が理科の畑作造先生。

 中学校にも、理科と数学が得意な、物理学校出身の畑作造先生がいました。先生は、いろいろなおもしろいことを教えてくれました。例えば、蚕の繭をとった後、さなぎが残るでしょう?その頃は、どこの家でも蚕を飼っていました。私の田舎では「お蚕さま」と敬称を付けて呼んでいましたよ。蚕のさなぎは、うんと油が強いのです。その油を絞って苛性ソーダを入れて、先生は石鹸を作ってね。それを日常的に理科の実験や手洗いに使ったり。そんなことばかりやっていたのです。「ピタゴラスの定理」の証明など、まるで芸術作品を観ているような気がしていましたね。

 1949年、僕が中学校1年生の時、湯川秀樹先生が日本人初のノーベル賞を受賞されたことは、大きなインパクトでした。僕も、物理でも何でもいいから、とにかく理科をやってみたいなぁ、という気がどんどん強くなってきました。。

 振り返ってみれば、小学校に入る前後から「どうして動くんだろう?」と好奇心でやり始め、理科好きな先生方にも恵まれました。ですから「大きくなったら、人のために役に立つ仕事をしたい」とか、そういうことではなかったのですよね。科学って、そのようなものかなぁ、と思います。


地学大好きでまっしぐら、というわけではない

 最初は天文学に興味がありました。中学校の時に買った天文学の本、今でも大事に取ってあります。ところが大学に入ると、天文学には数学が必要と聞きました。高校までは数学が大好きでしたが、大学の数学はえらい抽象的な話でさっぱりわからなくて。

 昔から地学は嫌いではありませんでしたが、「地球の歴史をやってもいいな」と少しずつ傾いてきたのでしょう。最初から地学大好きでまっしぐらに突進、というわけではなかったのです。

 同じ高校の先輩に、東北大学の八木健三先生(故人)がおられました。高校2年生の時、八木先生が文化祭に来て講演されました。確か「地学と人生」だったかな、それがものすごく印象的で、東北大学に行っても良いかな、という気持ちも多少あったのです。

 その前は湯川先生のノーベル賞もあるし、京都大学もいいなと思っていました。ただ京大は入試科目に社会が2科目必要で、東北大は1科目で良かったので、京大はちょっと手強いから、浪人したら京大も良いかなと。でも、東北大に受かったものだから、八木先生のところに挨拶に行って、当時は保証人が必要でしたから、「保証人になってください」と頼み込みました。

【写真2】1957年、大学3年の進級論文でのスナップ。岩手県宮古市豊間根川の林道で。地下足袋姿が蟹澤さん。

 当時の東北大学の教養部は、富沢(三神峯)にありました。現在は東北大学電子光理学研究センター(原子核理学研究施設)がある場所です。今も当時の木造建物が残っていますよ。そこに第一教養部がありました。ちなみに、第二教養部は桜小路(片平)にありました。現在の東北大学通信研究所がある場所です。

 工学部以外の学生は、第一教養部のある富沢に通って、そこで2年間学びました。地学実験を選択した人は、物理や化学に比べると少なかったですが、竜の口や太白山などがフィールドで、ハイキングみたいな実験でおもしろかったですよ。それでやっぱり、地学がおもしろそうだなと思って、地学を専門にして、もう50年以上になりました。


不易流行も無用之用も俳諧のみならず

 高校時代、僕の担任は宮脇昌三とおっしゃる国語の先生でね。旧制一高(現・東京大学)から東大文学部を出た後、戦争中だから兵隊に取られて、シベリアに抑留されて、終戦後3年たってから日本に戻ってこられた方です。僕たちの学年だけ、3年間クラス替えがなく、先生もクラスメートもずっと一緒でした。そのため、結束が強く、今でもクラス会を毎年やっています。

 うんと苦労された先生だけど、熱血漢のとても良い先生でね。「僕も国語をやってもいいな」とも思っていました。「お前さんは理学部より文学部に行ったほうがよい」と言われたこともあったのです。

 今でも持っている吉川幸次郎・三好達治『新唐詩選(とうしせん)』。これは高校3年生の時に買ったもの。ボロボロだけど、今でも捨てられないですね。国語も好きでした。だから今、『おくのほそ道』や石と人間の歴史に興味があるのも、そんな流れがあるのでしょうね。

 現役時代は研究を一生懸命して、好きな事だけやるわけにもいきませんが、定年になって、さて何しようか。昔の好きだった文学と専門にしてきた地質学と、くっつけて何かやれないかなと思いました。

 ですから、真理の探求とか、人のために役立てようとか、そんな立派な心構えでやったわけでないのです。好奇心のおもむくまま。ある意味では、幸せな人生かもしれないですよ。

 今の大学の先生方は、大変でしょう。僕は2000年に東北大学を退官したけど、その後に大学が独立行政法人化して、研究費を集めるのにも苦労するし、外にアピールしなければいけないこともあるけど、本当に気の毒だなと思います。最近の著書にも、僕が言いたいことを書いたのだけれども、これが今の心境です。

 不易流行(※1)も無用の用(※2)も俳諧のみならず、現在の私たちの生活全般や人間形成に当てはまる、重要な一面ではなかろうか。昨今の今すぐ役に立つ知識、技術がもてはやされ、基礎科学が疎かになる風潮は、その典型であり、今すぐ役に立っても来年には反故になってしまうこともある。自動車のハンドルやブレーキには必ず遊びがある。これがなければ危険極まりない。あくせくせずに人生を楽しみ、芭蕉のたどった道を、ゆっくり追いかけてみるのも良いのではなかろうか。

※1【不易流行】(ふえきりゅうこう):
いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものをも取り入れていくこと。また、新味を求めて変化を重ねていく流行性こそが不易の本質であること。蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の理念の一つ。解釈には諸説ある。▽「不易」はいつまでも変わらないこと。「流行」は時代々々に応じて変化すること。
※2【無用之用】(むようのよう):
《「荘子」人間世から》一見、何の役にも立たないようにみえるものが、かえって大切な役割を果たしていること。
(出典:三省堂)

 子どもが小さい時は「なんで?」と必ず聞くのです。やはり好奇心は大事にしないといかんと思います。数日前のニュースで、世界中の学力テストの結果で日本は少し良くなったと書いてありました。けれども好きなら、どんどんそっちの方に行くと思うのだけど。「今すぐ役に立つ」「受験に関係ないからやらない方がいい」という雰囲気は困ったものだなぁ、と思うのです。


もし1億年後の生物が地層を見たら

 地球の半径は約6,370km。そのうち地球の表面はほんのわずかです。海の平均的な深さは約3,800m。陸地の平均的な高さは約800m。一番高いところはヒマラヤ・エベレストで約8,800m。一方、人が住んでいるのは、せいぜい0m~1km(数km)です。ほんのわずかなところにひしめいているわけです。

 地球が誕生して46億年。そのうち石油・石炭が一番賦存するのは3~4億年前。せいぜい数億年ですが、でも数億年かかってつくられる石油・石炭を、ここ200~300年間でどんどん使って、今枯渇寸前と言っています。今の我々が生きている50年・100年・1000年の単位で考えてもよいものか。もっと長い目で見たほうがよいのではと、いつも考えてしまいます。

 地球の歴史を見ると、生物が発展の極に達すると突然絶滅することが、何回も繰り返されています。その原因は火山活動だったり、隕石の衝突だったりしますが、今まで陽の目を見てこなかった生物がかろうじて生き延びて、次の時代を担うことになるのかなぁ、人間もそうなるのかなぁ、という気がいつもするのです。

 今から1億年後の生物が地層を見たら、その頃に地質学者がいるかはわかりませんが(笑)、「1億年前の地層には、随分たくさんコンクリートジャングルや鉄の建物の跡があったり、放射能で汚染された地層があったり、一体どんな生物がいたんだろう」と思うのではないかな。そう考えると、何となく恥ずかしくなってしまいませんか?

 今でも太平洋プレートは1年間に数cmずつ動いています。ですから1億年たてば、今と全く違う大陸と海洋の分布になるだろうし、アフリカ大陸は3つくらいに分かれて、日本列島もどうなっているでしょう。火山活動も、我々の歴史時代以降、地球全体を覆いつくす巨大噴火はありません。けれども少し遡れば、何回も繰り返されているわけです。それが起こったら、一体どうなるだろう。

 今の人たちは、人間が自然を征服したような気になっているけど、地球の歴史を見れば、もっと謙虚になる必要があるのではないでしょうか。

 そう考えると、自然にないものをつくりだしたことは良いのか・悪いのか。放射性廃棄物も「地中に埋めればよい」と言いますが、地球の歴史を見れば、地下300mに入れても、いつ天変地異が起こるかわかりません。特に日本列島のようなところでは、火山活動や地震など、しょっちゅう変化が起こっているわけです。

 50年・100年の単位では起こらないかもしれませんが、それもわかりません。ですから、「自分たちの世の中には関係ない話だ」と言って、答えを出さないでもいいのでしょうか。いや、そうはいかないだろうと思うのです。

 地球は生きているし、人間だけが地球上に生きている生物ではありません。将来を考えれば、どんなことをやるべきか、どんなことをやってはいけないか。

 自分でも答えが出ないことを、若い人たちに押し付けるのも、少し気が引けるのですが、50年・100年というスケールではなくて、もっと長いスケールで地球の歴史や未来を考えた時、どうしたらよいかを考えなおす。その機会が今ではないか、と思います。


昔の人の想像力を見習う

 昔の人は、ものすごく想像力がたくましかったと思うのです。芭蕉だって、李白や杜甫の詩を引用し、中国のことについていろいろ書いています。芭蕉の時代は、中国に行った人なんて、ほんの数える程しかいなかったのに。おそらく中国の詩を何度も何度も読んで、想像したのでしょう。

 西行が亡くなって500年目、西行が歩いた奥州を訪ねて、芭蕉は「おくのほそ道」へと旅立ちました。芭蕉が生きていた頃より500年前の人の思いを胸に抱き想像しながら、芭蕉は歩いたと思うのです。想像力をかきたてる、それは非常に大事なことだと思います。

 昔の人が書いた文章を読むと、昔の人は大変少ない資料でもって、うんと夢を膨らませ、いろいろなことを書いています。それが今でも残っている。それは、すごいことだと思います。一方で今の人は「これからすぐ役立たないと、もうそれは科学ではない」とか。そういうのはちょっとつまらない気がします。

 湯川先生が中間子を発見したことだって、小柴先生が神岡でニュートリノを一生懸命観測したことだって、それは明日すぐ役立つとは限らないわけです。地震予知や天気予報は役立つかもしれないけど、地震予知だってなかなか思う通りにはいきません。

 最近になって、ギリシャ神話にも興味が湧き、いろいろ読んでいます。僕は哲学のことをあまりよく知らないけど、ギリシャ神話にしても、それ以降の哲学にしても、今の人たちの生き方に何か欠乏しているような気がして仕方ないです。

 人の心が豊かにならないと、いろいろなことが進んでいかない気がします。人はゆとりがあると、いろいろなことを考えます。それは別に大きなことを考えなくても、いいと思うのです。池内了さんの本『科学の限界』(ちくま新書)を読んでいたら、彼は「等身大の科学」と言っていました。

 寺田寅彦だって、身のまわりのちょっとしたことに、うんと興味をもって、そこからいろいろ考えていきました。寺田寅彦は、あの時代に、地震のことをずいぶん考えていますしね。「プレート」という言葉は使っていませんが、大陸が動いていると考えています。身のまわりのことからいろいろ考えていくことが必要だと思うし、昔の人の想像力を見習うべきだという気もします。

 一方で、今は情報が非常に発達しているから、知ろうと思えば何でもわかります。わかりすぎて、わかった気になるけども、でも、本当にわかったのかどうだか。ブレーキでもハンドルでも、遊びがあります。遊びがなければ、危なくて仕方ない。それは今の人間に通じるところがあると思うのです。

 最近、僕も科学史に興味が湧いてきました。なぜ昔の人が自然に興味をもって、今よりも情報が発達する前、知り得た知識だけで、自分の頭だけで、いろいろな現象をどうやって解決していったのだろう。そういうことに、うんと興味があります。

 時々、小学校の子どもたちを、近所の竜の口や八木山南にある治山の森に連れて行くことがあります。そこで貝の化石が出ます。「なぜここで貝が出るのだろうねぇ」と僕が言うと、「ここは昔、海だった」と子どもたちは言います。地層の中に入っている軽石を見て「この軽石はどこから来たんだろうねぇ」と僕が言うと、「火山活動でできた」と子どもたちは言います。

 そういう情報はいっぱい子どもたちも持っているのですよ。そういう知識はよく知っているのだけど、けれども、それだけで終わってしまっている。

 じゃあ、「なぜ恐竜は死んでしまったのに、ほかの動物は今でも生き残っているのだろう?新しく生まれてきたのかな?」とか、「昔この辺が海だったなら、なぜこんな高いところに海があったのだろう?」とか、そこから先まで本当は行ってくれるとよいのですが。

 もっと素朴な疑問を持って欲しいなぁ、という気がします。


あてがいぶちで、創意工夫は生まれない

 僕は田舎に住んでいましたが、今の田舎とはまた全然違うのです。池はどぶ池で、川はコンクリートじゃなくて、普通の小川だしね。自然のありのままの生態系で動いていました。冬になれば寒いし、夏になれば暑い。裸足で毎日歩いていたしね。それがずっと、昭和30年代くらいまで続いていました。自然との接し方は、全く自然のままでしたね。

 田舎でも道路がコンクリートなりアスファルトなりで舗装されたのは、昭和30年台の終わりか40年代になってからかな。それまでは雨が降れば道路は泥々になるし、自動車が通ればわだちができる。さらにその前は、牛や馬にひかせて荷物を運んだ時代でした。

 そんな生活でしたから、春夏秋冬はそのまま。春になればワラビやふきのとう、夏になればトマトやとうもろこし、秋になれば稲が実るし山ではキノコや栗が採れる、冬になれば夏秋に採ったものを土に埋めて少しずつ食べました。でも今はトマトは夏にとれるものだっていうことが、わからない。季節感も何もなくなっていますから、そういう生活の違いは大きいと思います。

 うちの子ども達もそんな時代に生まれて、孫なんて、もっとひどいですよね。でも子どもはやっぱり泥んこ遊び、うんと喜ぶみたいです。1日中、泥んこ遊びをしている。子どもたちに自然に接しさせる。多少は危険でも、良いと思います。小さい頃に痛い思いをしながら経験しないと、「教科書やマニュアルがなければわからない」人間になる。やってみたらよいのに、やらないでね。

 昔は「ガキ大将」がいて、喧嘩の仕方を教えました。ここまでは良いけれど、その先は止める、という手加減を自ずと会得したのに、今はそれがないから、いきなり大けがや殺人事件にまで発展してしまう。「ガキ大将」の役割は大きかったと思います。私はいつも虐められる方でしたが。

 この間テレビを見ていたら、お母さんたちがティシュペーパーの箱で手を切ったとか、そんなことが問題視されているようですね。今はいろいろなものに「怪我をします」「熱くなるとやけどをします」とメーカーがくどくどと書いているでしょう?いちいちそんなことまで書かないといけないのか、と。

 聞けば、お母さんたちがすぐメーカーに投書するらしいです。でも、そんなことは自分たちが経験しながら体得することでしょう。今は自分たちで経験しながら覚えていくことをしないで、皆メーカーや学校に責任を押し付けていく。それは間違いだと思います。

 僕らが石を区別する時は、よく「振ってみろ」とか「舐めてみろ」と言います。比重の重い石は振ってみた時、やっぱり感触が違いますし、珪藻土は吸水性があるから、ちょっと舐めたら舌にぺたっとくっつく。そういうことを体験するのが大事だと思います。

 やり方はいろいろあると思いますが、まずは食べられるか・食べられないか。舐めて苦かったら、これは食べない方がよいだろう。まぁキノコなんかは下手に食べると命に関わりますが。昔の人はそうやって「これは毒、これは食べられる」と区別してきました。

 それから昔は「肥後守」という殿様みたいな名前の切出ナイフを、みんな持っていました。鉛筆はそれで削ったのです。でも今は、危ないから禁止なんだそうです。以前、学生に「りんごを自分で剥いて食べてちょうだい」と言ったら、「どうやって剥くんですか、やったことありません」と言われましたね。マッチで火を付けたこともないという。

 けれども、痛いとか熱いとか、自分の肌で感じて体験をしなければ、わからないですよ。それはやっぱり、まずいです。僕らの時代は、それができた時代でした。今の子ども達は、そういう意味では、気の毒だなという気がします。

 そういう体験をするうちに、「自然ってそういうものだ」と思うかもしれません。ではなぜこうしたらマッチで火がつくのだろう?とか、ちょっとしたことで疑問も出るだろうし、工夫も出るだろうし。

 すべて準備されたもの、あてがいぶち(出来合い)で生活しているのでは、やっぱり何も創意工夫が出てこないだろうと思います。逆にすべてが揃っていて「じゃあ、これでやってください」なら、何も進歩がないわけですよね。「困ったな、どうしよう。じゃあ、今ある条件で、自分たちで何ができるか?」。好奇心も、そことつながっていくと思うのです。

 僕は、好奇心がいろいろなところでつながる気がするのです。そこでいろいろやってみると、何もないところから何かを生み出す、新しいものづくりに発展するような気がします。


科学とは人間の本性

 だから僕のやっている科学とはなんだろう?とは、明日すぐ役立つとか真理を解明するとか、そういうものではなくて、人間の本性みたいなもの。どうしてだろう?そう思うのが人間。そこから先はわからないけども、想像力をたくましくて、いろいろ考えてみる。

 今年ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生だって、すべて最初から「役立つものをすぐにやる」わけではなかったと思うのです。「これからは苦しんでいる人のために役立つ」、それは非常に大切なことですが、その素地を育てるのは、やっぱり好奇心や想像力。それで一生懸命やったら、役立つところまでいったのだと思います。

 湯川秀樹先生だって、中国の漢詩がものすごく好きだったんですよね。要するに、中間子だけに力を注いだわけではなく、あちこちに寄り道していた。朝永振一郎さんという、湯川さんのお友達だって、そうです。

 僕、朝永先生と湯川先生のお話、お二人とも聞いたの。おもしろかったですよ。朝永先生の話はまるで落語を聞いているみたいだし、湯川先生は生真面目だけど漢詩の素養があって、中間子を探すまでの経緯や、小さい頃にどんな興味があったかを話してくれました。

 湯川先生のお父さん・小川琢治先生は、地質学がご専門でした。日本列島がどうやってできたかを、最初の頃に論文にされた先生なんですよね。湯川先生は6人姉弟で、冶金の先生と中国文学の先生、湯川先生とおられたしね。

【写真3】2004年12月。中国山東半島での巡検風景、この付近は大陸が衝突して出来た超高圧変成帯に属するところ。

僕がなぜ地質学をやってきたかと言えば、やっぱり「北上はなぜ北上山地なんだろう?」「中国や北ヨーロッパの古い石がどうしてそこにあるのだろう?」といった興味です。それが資源探索に役立ったこともあるし、あまり役立たなかったこともあります。どちらかというと、役立たなかったことが圧倒的に多かったです。

 化学も好きだったので、いろんな地域の石を集めて化学的に比較するために、分析したり顕微鏡をのぞいたりしました。いちばん印象に残っているのは、阿武隈山地で日本では珍しい十字石を発見したこと、それから、あまり人のやっていなかった鉱物中のフッ素(ハロゲン元素の一つ)を分析し、その地球化学に力を注いだことです。

 今は建設屋さんから「福島県の地質概説を書いてくれ」と頼まれています。どこに化石が出て、どこから北上山地はやってきたか、基礎的なことが建設に役立つかと聞かれれば、あまり役立たないと思います。でも建設屋さんとしては、そういうこともどこか頭の隅に置いておいた方が良いと思うし、トンネルを掘る時に何かの役立つかもしれません。

 定年後、僕が執筆を始めたのは、スタインベックの『怒りの葡萄』を読んで、こんな見方があるんだなと思ったのがきっかけです。1930年代、大恐慌の最中アメリカで大干ばつで砂嵐(ダスト・ボウル)が起こり、オクラホマに住んでいたジョード一家が苦労してカリフォルニアを目指し、家族を連れて移動する話です。これは環境問題に関係あるなと思ったことから始めたのが、一つのきっかけです。私が1970年代に調査したルートが、この小説の舞台と重なっていたことも幸運でした。

 環境問題ばかりではなく、ギリシャ神話やゲーテの『イタリア紀行』など、文学と地質学、一見関わりのないものを、いくつか探し出してみたの。そしたら本ができました。それも好奇心といったらよいのかな。一見なんの関係ないものを結びつける糸が、どこかにあるんじゃないかなと思ってね。探してみたら、結構あるんです。

 宮沢賢治も、ものすごく好奇心が強い人でね。花巻から仙台の丸善まで、本を買うために何度も来たとかね。鉱物学や地質学にも、法華経にも興味を持っていたわけでしょう。岩手県は昔から干ばつや冷害に見舞われ、農民がしょっちゅう苦しんでいるのを見て、「自分に何ができるだろう」と想像力を働かせて、いろいろな小説や童話を書いたと思います。

 魯迅も、仙台に来る前は、地質学をやっていたのです。魯迅は地質学の論文や中国の地質の概説書、地質学の啓蒙書も書いているしね。

 ゲーテにしても宮沢賢治にしても魯迅にしても、やはり好奇心と想像力を持っているような気がするのです。


好奇心と想像力は人間の特権

 誰でも好奇心は残っているとは思うのですよ、人間だからね。でも、子どもが大きくなるに従って、生活面で失せていくのかなぁ。外的な要因でね。

 だから教育が大事でね。「どうして?」と子どもは必ず聞くんですよね。「どうして?」という素朴な疑問が、子どもを育てる時にうんと大事なことだと思うのです。「どうして?」と聞かれて、「そんなこと俺は知らん」「これは受験に関係ないから」ではなく、「これはこうだから」とか「今はわからないけど、あんた考えてごらん」としていかなければなりません。

 「どうして?」と疑問に思うことは、人間以外の生物にない、人間の特権ではないかと思うのです。それが人間を取り巻く環境でなかなか生かされない、むしろどんどん、あっちの方へやられてしまっているのが問題です。

 想像力を働かせる前に、「やる必要があるのか」、あるいは自分で想像しないで、他所から情報を取り入れて、わかった気になっている。もしかすると僕の考えは間違っているのかもしれないけど、僕自身はそんな気がするんです。

 好奇心と想像力。これは人間の持つ特権、特性じゃないかと思うのです。その結果として、好奇心と想像力が役立つことは十分あるわけで、それはもちろんよいことだと思います。役立つものばかりでないけれども、好奇心と想像力は重要なもの。人間の本性として持っているもの。

 私自身、「好奇心のおもむくままに、想像をたくましくして」とまでは行きませんでしたが、子どもたちには、そうあって欲しいと願うこの頃です。

―蟹澤さん、ありがとうございました。

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【写真4】モンゴル国バヤンホンゴル県における調査の一コマ。写真右が蟹澤さん。
取材先: 蟹澤聰史      (タグ: , , , , ,

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