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2024年 11月 21日 (木)

伊達宗行さん(財団法人新世代研究所理事長、大阪大学名誉教授)に聞く:科学って、そもそも何だろう? 取材・写真・文/大草芳江

2012年1月21日公開

「科学」は人間の本性であり、
人間を大事にすることと同じ。

伊達 宗行  Muneyuki Date
(財団法人新世代研究所理事長、大阪大学名誉教授)

1929年仙台生まれ。理学博士。専門は物性物理学、特に磁性、極低温、強磁場研究で国際的に著名。1952年東北大学理学部卒業。1955年東北大学理学研究科物理専攻中退。大阪大学理学部教授を29年、同学部長、日本原子力研究所の初代先端基礎研究センター長、日本物理学会会長、日本学術会議会員、同第4部長などを歴任。現在、財団法人新世代研究所理事長、大阪大学名誉教授。電子スピン共鳴の研究で松永賞(1971)、超強磁場の開発で仁科記念賞(1980)、そして日本金属学会論文賞(1985)、藤原賞(1991)、紫綬褒章(1991)、勲二等瑞宝章(2000)を受賞。主な著書に、『新しい物性物理』(講談社)、『極限科学 強磁場の世界』(丸善)、『極限の科学』(ブルーバックス)、『「理科」で歴史を読みなおす』(ちくま新書)等がある。

一般的に「科学」と言うと、「客観的で完成された体系」というイメージが先行しがちである。 
しかしながら、それは科学の一部で、全体ではない。科学に関する様々な立場の「人」が
それぞれリアルに感じる科学を聞くことで、そもそも科学とは何かを探るインタビュー特集。


物性物理学の専門家で、特に磁性・極低温・強磁場の研究で国際的に著名な
物理学者の伊達宗行さんは、「『科学』と『科学技術』は非常に違う」と強調する。

「『科学』とは自然そのものを探究する学問であり、
 科学が見出した成果を如何に人間社会に持ち込むかが『科学技術』である」

伊達さんがそう強調する根本には、科学のあり方を考えること、それはつまり、
人間の本性(ほんせい)を大事にすることと同じである、という思いがあった。

そんな伊達さんがリアルに感じる科学とはそもそも何かを探った。

<目次>
「科学」と「科学技術」は非常に違う
人間の本性に反している
科学を総合的に理解する人が少なくなっている
大学の矮小化と科学者のサラリーマン化
アンチ・サラリーマンポリシー
時代を離れた科学者はいない
科学者も芸術家もつくるものではなく自然に出てくるもの
昔は教授になれる人数だけを教育した
天才を見出す能力に欠けた、サラリーマン化した評価方法
物理学は斜陽産業で、お呼びではない
物理学は「何がわからないか」を探す学問
人間を大事にすることと同じ
伊達先生が最近執筆した本の紹介


物理学者の伊達宗行さん((財)新世代研究所理事長・大阪大学名誉教授)に聞く


「科学」と「科学技術」は非常に違う

―伊達先生がリアルに感じる科学とは、そもそも何ですか?

 殊に東日本大震災後、ある意味では、科学のあり方が問われています。非常に重要な問題だと思うので、今日はそこから始めましょう。

 そもそも「科学」と「科学技術」は違います。それははっきりさせなければいけません。「科学」とは自然そのものの探究です。一方、科学が見出した成果を如何に人間社会に持ち込むかが「科学技術」です。したがって、科学と科学技術は非常に違います。

 科学は、人間を容赦しません。例えば、あと一億年もすれば地球は人間が生きるようにしてはくれないでしょう。やがて地球は太陽に飲み込まれます。そして太陽系すべての星が死の世界への導かれます。そんなところに人間の入り込む余地などないわけです。

 しかし、そのような自然を探求する学問、それが科学なのです。科学が見出した成果を人間社会に如何に使うかが、科学技術です。そして時代はどんどん変わり、科学のウエイトが高まり、科学技術の恩恵も非常に大きくなりました。

 そして今回の震災で、こんな議論があったことを、僕は非常に心配しているのです。東電の原発事故を、「やっぱり科学が悪い」と言う人がいる。これは非常に問題だと思います。それは科学技術のやり方が問題なのであって、科学には良いも悪いもないんです。

 繰り返しますが、科学とは人間の思惑とは無関係に存在する自然を調べるもので、人間にあくせくしていない。それが科学の魅力でもあるし、また自然の実態ですよ。

 2001年にノーベル化学賞を受賞した野依良治さん(理化学研究所理事長)も仰っていました。酷い災害が起こる。それを科学技術のせいにするのも良くないが、さらに良くないのは、科学のせいにすることだ。それは絶対にいけません、科学と科学技術はわけなさいと。まさに仰る通りだと思います。

 そういうことで今、科学のあり方を非常に心配しているのです。震災後、いろいろな意味で社会は歪んでいる。非常に由々しき事態です。


人間の本性に反している

―どのような点に歪みを感じますか?

 私は科学を若い頃からやってきて、現在もその延長線上にいますが、関連する科学技術には関心がありますし、それなりのことも考えています。

 何と言っても、真理を探求する科学という学問、それは理学・工学に関わらず、我々人間にとって最も大事なものの一つです。そして科学技術は、科学が切り拓いた新しい成果を受けて、「ではどこをなおそうか」と技術をさらに改良して進めていく。それが人間の歩んできた道ですよ。

 それは原子力も同じです。原子力は人間が発見した「第2の火」と言われています(「第3の火」という人もいます)。

 50万年前、ネアンデルタール人か誰かが、火を使うことを覚えました。火を使うことが、人間と他の生物を区別する非常に重要な境目です。しかし、火が人間のものとなり誰でも使えるようになるまでに、50万年もかかっているわけです。

 少なくとも火が人間社会に入ってから1、2万年、火は危ないものだったでしょう。今の原子力のようにね。しかし50万年後には、大火事が起きようが火山が爆発しようが、「火を使うのはやめよう」なんてことは絶対に言わなくなったわけです。

 ちょっと数字で見てみましょう。原子レベルで言えば、火(化学反応)はeV(電子ボルト)程度、これは温度換算で約1万度です。一方、人間は火無しでは温度は自然に任せきり、自分では百分の1度もつくれません。つまり人間は火の使用で約百万倍(10の6乗倍)の熱エネルギーを手に入れたのです。

 それから50万年が経ち、人間は「第2の火」を発見しました。それはMeV(メガ電子ボルト)、奇しくもさらに6桁エネルギーが高いのです。そんな桁違いのものを、わずか50、100年で人間がマスターできるなんて到底思えません。ここから人知を尽くさなければいけないのです。ですから、それを「捨ててしまおう」なんて、とんでもない話です。人間の本性に反しています。

 人間の本性とは、如何に困難なものであっても、あらゆる努力を払って改良に改良を重ね、科学技術の粋を駆使し、極めて危険に見えるものでも人間が使えるものにしてきた点にあります。原子力、宇宙旅行などが、このカテゴリーに入るでしょう。それが人間が他の動物に対して誇れるべき人間の能力なのです。だからこそ地球の覇者になっています。

 そのようなことを、きちんと認識しなければいけません。それはやはり、科学をどう発展させるかが第一であり、そしてそれを踏まえて科学技術をどう発展させるか(失敗を乗り越えて)です。ものごとの順序はそうですよ。


科学を総合的に理解する人が少なくなっている

―問題の本質はどこにありますか?

 結局、今の科学界で一番問題なのは、科学者が専門家になり過ぎたことです。学問が進むほど、どうしても専門家でなければ仕事はできないため、やむを得ないことではありますが、科学を総合的に理解する人が少なくなっていることを心配しています。

 産業革命まで、科学と芸術は一体のものであったと言います。それは「アルス」と呼ばれており、それ自体が創造の中核でした。それまでは、サイエンスも無ければアートも無く、広い視野でいつも全体を眺めていたのです。

 しかし、その中から科学が異常なまでの成功を収め、ひとり抜けだして産業に革命をもたらし、社会構造に重要な影響を与えた時、アンチテーゼとしてアートが生まれました。アルスは分離され、崩壊したのです。

 科学が地球をも変えられる、となった今日、"科学者による自己最適化"はもはや許されなくなりました。社会全体がアルスへの回帰を考えなければならない時期に来ています。

 さもなくば、これからの科学は部分的な肥大病になる、あるいは大事なものが放って置かれる恐れがあります。そのことを非常に心配しているのです。


大学の矮小化と科学者のサラリーマン化

 そして、科学者という存在がかつて尊敬され社会的地位を保っていたのとは裏腹に、大学が矮小化してきたことを心配しています。我々が若い頃と比べても、さらに矮小化しています。しかし、それは我々の時代よりもずっと前から始まっていることです。

 「科学」という言葉が生まれたのは、19世紀頃と言われています。イギリスのファラデーが電磁気学という新しい分野を実験的に確立した頃から、社会に「science(サイエンス)」や「scientist(サイエンティスト)」という言葉が生まれました。

 しかしファラデーは、「scientist」と呼ばれることを非常に嫌ったそうです。彼は「philosopher」(フィロソファー:哲学者)と呼ばれたがった。

 つまり、専門で小分けするのではなく、「philosophia(フィロソフィア:愛知)」、つまり知を愛する、そういうものが学問だとファラデーは強調しているのです。

 その時代から比べれば、我々の時代もずいぶん矮小化したのですが、最近は特に、科学者がサラリーマン化していると感じます。もちろん生活がある程度安定しなければいけないですから、定収入のある社会に科学者を置かなければいけない、それは確かです。

 しかし、科学者は普通のサラリーマンとは違うはずで、学問をするのに昼も夜もないはずです。ところが、昔の大学は昼夜も出入り自由でしたが、今の大学は「建物の管理の問題があるから」と言って夜は入れません。このような面においても、科学者の行動が矮小化されているのです。

 私の見聞きの範囲で、外国でもこんな話がありました。「メスバウアー効果」を発見したメスバウアーというドイツ人研究者が、ある会議に参加した時のことです。

 その会合をまとめている科学者たちの奥さんたちが会議にやって来て、こう言ったそうです。「ノーベル賞をもらったメスバウアーて、あなた?私の主人を1ヶ月間も大学に釘付けにして、家に帰さなかったのは、あんたなのね!」って。そう言って、笑ったそうですよ(笑)。

 つまり、非常に重要な発見がなされる時は、昼も夜もないんです。ところが、サラリーマン化された科学者の生活の中では、それはもう不可能です。研究の場所が昼と夜で別々に管理され、それに自分が合わせていかなければならない。それではサラリーマンですよ。


アンチ・サラリーマンポリシー

 それから、例えば「これはもうぐじゃぐじゃやっていると、細かいものばかりやるようになって、こんなことじゃ科学はダメになる。ひとつ、一杯飲んで大騒ぎでもするか」ということが、今は個人的にしかできなくなりました。

 昔はそういうことをしようと言えば、お金が出たのですが、今は科学研究費の使い方が非常に厳しくなりました。そうなったのは、悪いことをする奴がいるからなんですよ。だから、しょうがないのですが。

 しかし結果的に、最も重要な研究と、その活力をまとめるための行動にお金を使うことが難しくなってしまいました。やっぱり、これもサラリーマン化現象の一つであろうと思っています。

 私は東京で財団法人の理事長をやっていますが、これはとにかく「あいつは優秀だ」と見込みのある研究者を集めて一杯飲ませる会ですよ。もちろん名目はきちんとしていますが、なかなか能率が上がりますよ(笑)

 というのは、そうやって専門領域を越えた有能な人たちが仲良くなって、共同研究をし、新しい発想で良い仕事が出始めています。やっぱり、そういった場が必要なんですよ。

 アンチ・サラリーマンポリシーでもって、ものごとを動かさないといけないですね。


時代を離れた科学者はいない

―なぜ科学者のサラリーマン化現象は起こっているのでしょうか?

 一つには、残念ながら、学問が進んだからですね。やはり昔のような、非常に根源に関わる重要な問題がなくなっちゃった。あとは、それを如何に展開し、如何に組み合わせて、というのが多くなった、ということは言えます。

 20世紀は物理学にとって奇跡の時代だったと言われていますが、21世紀はそうなりそうもないですね。「奇跡」になることは、ほぼ発見されてしまいました。しかし、またとんでもないことが起きて、これから社会というものは進んでいくでしょう。

 例えば、生命現象の物理学には、まだまだとんでもない発見があるだろうと思います。今、生命現象はわかったと言われていますが、枝葉末節がわかっているだけで、大きなところはまだわかっていません。

 具体的には、例えば脳のどの部分が何をしているか等はかなりわかっていますが、全体がどうやって動かされるかや、総司令部がどうなっているかは、まだわかっていません。大体、そういうものがあるかどうかもわからないのです。

 ですから、自然科学の中では、まだまだ非常に重要な発見があると思いますけどね。それが実際に21世紀中、どれだけ進むかは、まだ10年しか経っていないのでわかりません。

 しかし20世紀と比べて、最初の10年を見れば、確実に減ったと言えるでしょう。20世紀の最初の10年は、例えば、アインシュタインの相対性理論、量子論や超電導の発見がありました。物理だけでも、とんでもない大きなものが発見されたのです。

 一方、21世紀の最初の10年は、もちろん大事なことはいっぱいありましたが、それほど革命的なことは起きていません。「これから90年もあるのにわかったことを言うな」と反論されるかもしれませんが(笑)、やはり20世紀と21世紀の違いだと思いますよ。

 その前だって、14~16世紀頃にルネサンスで社会が変わり、1600年前後にガリレオ・ガリレイが登場し、1700年前後にニュートンが登場しました。やはり節目、節目があるのですね。

 物理学者の中でほぼ意見が一致しているのは、とにかくここ数百年間を見ると、トップの物理学者はニュートンとアインシュタインの二人だ。数百年に一人という桁違いの科学者である。そうロシアの天才科学者ランダウが言っていました。

 それはやはり科学者の資質の問題もありますが、時代というものを離れた科学者はいないですね。いくら天才でも、何もやることができない場所に放り出され、新しいことのできない時代に置かれたら、何もできませんよ。ただ生まれて死んでいくだけです。

 ニュートンもアインシュタインも、やっぱり時代が彼らを天才に仕立てたというところがあります。そのような意味では、21世紀にも百年に一人出る天才がいるのだろうけど、それが働くべき場所にいるかどうかは、また別問題なのです。


科学者も芸術家もつくるものではなく自然に出てくるもの

 ここで科学者の話に戻りますが、今、本当に優秀な科学者を育てられるのかと非常に心配しています。社会が科学を必要とすると声高に言っていますが、その理由は非常に簡単です。それは、科学ではなくて科学技術が欲しいからです。

 例えば、世界の自動車メーカーのトップになるには、それなりの技術者を持つ必要があります。ですから社会が欲しがっているのは、そういうものに対応できる科学技術者であって、科学者ではないのですね。

 最初に述べたように、科学と科学技術は非常に違うのです。そういう目で見ると、本当に科学者を育てられる場が、今、準備されているのでしょうか。昔よりも狭くなっているのではないか、という気がしますね。

 今は、例えば「ポスドク一万人計画(※)」で研究者を増やしたりしていますが、それは、先ほどお話ししたように社会のニーズに応えるためのものであって、純粋な科学者を増やすためのものではないですね。

※文部科学省が1996~2000年度の5年計画として策定した施策。研究の世界で競争的環境下に置かれる博士号取得者を一万人創出するための期限付き雇用資金を大学等の研究機関に配布したもの。(参照:Wikipedia「ポストドクター等一万人支援計画」)

 それはどういうことかと言えば、もともと科学者とは無理してつくるものではなく、自然に出てくるものです。それは芸術家と同じですよ。ですから、やっぱり共に「アルス」の世界で、科学と芸術は本質的に同じなのです。

 例えば、芸術関係でも学校がありますが、それは一つの通り拔けるべき門ではあるものの、そこを卒業したからと言って、芸術家が増えるわけではないし、また成功するとも限りません。

 ひどく才能があっても、表に出ないまま死んでしまう人もいれば、ある時代と奇妙に馬が合って、滑稽な芸術がもてはやされることもあります。

 いろいろへんてこなことがあるのですが、科学者にも同じようなところがありましてね。だから科学者と芸術家は同じなんですよ。科学者も芸術家も理屈の合わないところで育っているわけです。


昔は教授になれる人数だけを教育した

―「科学者は自然に出てくるもの」なのにどうやって「優秀な科学者を育てる」のですか?

 我々の時代はまだ良かったと思うんです。それはなぜかと言うと、戦争中、大学の各学科で卒業生の一人か二人が「特別研究生」にされたのです。僕もそれをさせてもらいました。何が良いかと言うと、いきなり助手より良い給料をもらって研究ができたのです。

 では、なぜ日本はそんなことをしたのか。それは戦争で若者が死んでいく中、科学者の卵を絶やさないようにしなければいけない。だから、教授になれる人数の確保だけを前提として教育したわけです。

 しかし今は、そういう発想が全くありません。要するに、社会のニーズに応えるためには日本中でたくさん技術者をつくらなければいけないわけです。

 けれども大学教授の数というのは、大学の数が増えたり減ったりしなければ、年間どの程度補充するか予めわかっているわけです。その補充できるだけの人数で言うと、旧帝大の一物理学科で一人か二人だけ学者にすれば良い、という計算になるのです。

 戦時中は、そういう奴には助手より良い給料を渡そうという、非常に露骨な政策が取られたわけです。そのおかげで僕は、そのお金をもらって研究ができましたよ。

 要するに、科学者、つまり教授候補が10人いれば良いところに100人も1000人もいようでは、所詮不健全な社会です。一方で戦時中のように、一人か二人、非常に優秀な者を中心に教育しようという時代もありました。

 しかし、今はそういうことをやろうとすると、「それは差別だ」と批判されます。だから今は、そうやって満遍なく金をバラまいているだけで、政策に強烈な指導力がないんですよ。

 如何にして日本は最高レベルの天才的科学者を逃さないようにできるか。それを逃せば、もう皆どこかに生きて、それなりの人生を送って死んじゃうのですからね。

 今日、ある意味では、教授になるのが偶然みたいな面があります。「教授席が空席になったからそこを埋めよう、あそこにこんな奴がいるから呼んでこよう」というのが主流で、便宜的に決まるケースもかなりあるのが実情です。若い時から目をかけ、じっくり育ててロイヤルゼリーをなめさせ(学問にもそういうのがあるんですよ)大物に仕立てる、こんなケースは稀になりました。


天才を見出す能力に欠けた、サラリーマン化した評価方法

 また、学問の評価方法が、それこそサラリーマン的になっていると感じます。昔は入学した時点で「あれはもう将来の教授ですなぁ」という雰囲気をもった人間がいたもんですよ、いくら若くても。そこがおもしろいところでね。

 こんな話があるんです。ショパンがポーランドからパリに逃れ、パリのとあるカフェでピアノを弾いた時のこと。その会場に偶然居合わせた非常に著名なピアニストが「諸君、起立したまえ、天才にむかって」と言ったそうです。おもしろい話でしょう。

 ポーランドから逃れてきたピアニストが、天才であることは確かです。ショパンのピアノ曲には、それまでの古典的なものとは全く違った華やかさがありますからね。けれども、それを一瞬でわかった人も偉いんです。

 この話は象徴的なので少し大げさに言いましたが、物理学者でも同じことが言えます。まだ何もしていない段階で「あいつはとんでもない奴だ。将来大物になるぞ」とわかっているケースがあるんです。

―それはどうやってわかるのですか?

 それが、どうも言い難いのだなぁ・・・。どうやってわかるかと言うと、「見てわかるんです」と答えるしか、しょうがない。科学にはそういう面があるのです。先ほどのショパンの例のようにね。けれども、そういうのが大事な雰囲気がなくなってきました。

 今は例えば「論文を10本書かないと教授になれませんよ」というような雰囲気になっていますね。その証拠に論文の質が低下していると思います。昔はある論文を書くためには、それに関係する論文は全部、引用論文として書いた、と言うより、書けたのです。

 しかし今は、例えばある考えがネットに流れると、あっという間にそれに関係した論文が1万本出てくる。1万本を全部引用論文として書くわけにはいかない、というわけですよ。

 昔は「論文ができました」となると「引用は完全にしましたか?」となるのだけど、今は完全な引用なんてできるわけがない。学問というものは変わってしまったと、ノーベル物理学賞を受賞した小林・益川両氏も嘆いておられましたよ。

 これは難しい問題です。人が多くなり、それから天才を見出す能力に欠けたサラリーマン化した場、しかも引用が不正確なまま論文がつくられる、そういう時代になっているわけです。

 このような中で、群を抜いた仕事はどうやって出てくるのか、それはなかなか難しいです。科学を進めていくためには、今後の大問題ですね。それを科学行政として行政がどれだけ認識してやっていけるかが、非常に難しい問題になっています。


物理学は斜陽産業で、お呼びではない

―科学の現状について、問題点は山のようにありますね。

 その通りです。就職問題も良くないと思います。我々が教授の頃は、研究室に配属された学生の就職に、教授が責任を持っていました。「少々乱暴者ですが一生懸命取り組む奴です」等と学生の個性を書いた教授の推薦状は信用され、企業は学生を採用してくれました。けれども現役の教授に「就職の世話はしているのか?」と聞くと、「今はそんなことをできる時代じゃないですよ」と言われます。

 逆に今は、留学生がうんと増えていますね。ところが、せっかく育てた留学生には「日本よりもアメリカに行った方がいい」「中国に帰って来いと言われた」等と言われて、優秀な人間を確保することも難しい。現役の教授らは「逃げられる」という言い方をしていますよ。将来性のある優秀な人材を育て、そして確保するのは、なかなか大変です。

 さらに悪口を言うと、教師の方にも問題があります。物理学の卒業生でありながら、物理学全体が見えていない。化学の卒業生でありながら、化学の一部しか見えていない。生物の卒業生でありながら、生物の一部しか見えていない。

 しかし本当の大学の仕事とは、もちろん個々の優れた実績を持っていなければ困りますが、問題はやはり、物理のあるべき姿を把握できるかどうかなのです。しかし今は、それが難しくなっています。

 なぜかと言うと、昔は教養部があったのですが、今は教養部という形はなく、だいぶ流動的になっています。昔は一般教養で物理学は必須でしたが、今はなかなかそれができていません。

 最近驚いたのですが、福島大学の若い人で、東日本大震災後に放射線測定を行った人の手記に、「物理学科系業者は自分一人しか福島大学にいなかった」とありました。それほど(物理学者が)減らされたのかと大変驚きました。

 もはや物理帝国の崩壊ですよ。物理学は斜陽産業で、お呼びではないのです。就職率を上げるために即戦力となる学生を育てようとする工学部系の教師にだんだん変わってきています。特に地方大学はそういう現実路線で、ますます物理が要らなくなっています。

 しかしながら、物理的な考え方をできる人がいなければ、次の世代を一体どうするというのですか。


物理学は「何がわからないか」を探す学問

―そもそも物理的な考え方とはどのようなものですか?

 物理学は「何がわからないか」を探す学問だと思った方が良いでしょう。「これだけは全然何かわからないことが根本にあるのだ」ということを探すのが、物理学の重要な仕事です。それがわかったら、あとは化学や生物学等に譲るのです。

 しかし、そういうことのわかる物理学者が減っていることを非常に心配しています。素粒子や物性理論といった分野としての区切りの前にあるのは、もっと一般的にある物理学ですよ。

 少し話は脱線しますが、私は東京で財団法人の理事長をやることになったので、会合で「理事長挨拶」というものをしていたのですが、理事長挨拶の内容なんて、もう決まっているんです。けれども、そんなの馬鹿げているでしょう(笑)

 そこで「挨拶講演」というものをつくりました。学問の中で物理的なコンセプトが、どのように存在するのか、どのように組み立てられているのか、それぞれのニュアンスで講演するというものです。物理学だけでなく、化学や医学等いろいろな話を交えてね。挨拶講演、結構好評なんですよ(笑)

 数学にも、わりと同じようなところがありますね。数学的あるいは物理学的に、新しいものがどういうものか、そしてどんな普遍性があり、他の学問と接続しているのかを見つけ出して皆さんに伝えることが、物理学の大事な仕事なのです。

 そのためには、それなりの教育をしなければいけません。物理学全体の基本を教えなければいけないのです。けれども、どうしても自分の専門にこだわって(視野が)狭くなりますからね。

 今度の地震だって、「あんな津波は絶対に来ない」と専門家の学者が思い込んでいたわけですから。ですから、今度の現実は貴重な経験として、単なる事実の書き込みだけではなく、研究の方法論として学問を進化させるために使わなければいけないのです。

 およそ予知をしようという学問では、大事なことは歴史を調べると出てくるものです。歴史を調べることで、ある程度の人は今度のような大津波が来ることを知っていました。産業技術総合研究所の研究者で、昔の痕跡(堆積物)を調べていた人がいます。すると約千年前の貞観津波、その千年前、さらにその千年前まではわかるそうです。やはり歴史を調べてみるとわかることもあるのです。


人間を大事にすることと同じ

―これまでのお話を踏まえて、中高生も含めた読者にメッセージをお願いします。

 そもそも科学というものは、教育によってつくられるものではありません。科学は、人間の本性に関わるものです。人間がこの世に現れ、現在地球の覇者となるほど発展したのも、人間が科学という考え方を理解したからです。それが人間の、他の動物と最も異なる特性の一つであり、まずそれを非常に大事にして欲しいと思います。

 皆さんが、非常に正直に自然を見る、あるいは人の社会を見る、そこで感じたことや思うこと、そこに科学の原点があります。それが非常に重要なことなのです。それは教育によって磨かれるものではありますが、そもそもは人間の本性に従っているものであることを、ぜひ認識して欲しいのです。科学も芸術も同じ原点を持ち人間の本性の一つです。つまり人間を大事にすることと同じなのです。

 自分自身の最も特徴ある人間の本性を発展させること。その根本から、科学に対する理解や信頼、思い入れ、そういうものを育てて欲しいと心から願っています。

―伊達先生、本日はありがとうございました。


伊達先生が最近執筆した本の紹介

・『「理科」で歴史を読みなおす』(ちくま新書) :一般向き
・『極限の科学』(ブルーバックス) :理系向き

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